02年2月分小学科説教


列王記上17章1〜24節  

説教題  「『惨めな』人にしてください」
 息子が先に死ぬなんて、わたしのせいだと言うのですか!目の前の人にそう叫んで、女の人は泣き崩れました。この人は、私の家に来てからつい昨日までは、瓶油と粉をくれる、よいお方だった。しかし今日は、私が惨めな人間だということを思い起こさせる男、面白くないやつ。
 思い出しています。そういえば数日前、私は貧乏だった。たった一つ楽しみにしていたのは、かわいい、宝物だった息子と、家からパンが無くなった時、一緒に死ねるということだった。その時から私は本当に惨めな人間だった。そして今、その楽しみも絶たれてしまった。あの時パンと油をくれさえしなければ。思い出すだけでも惨めになる。ああ、私はなんて惨めな人間。
 人間ってね、自分で自分に魔法がかけられるんだよ。「私は惨めな人間になりたい」って思ったら、本当に惨めな人間になった気分でいれちゃうの。ちょうどこの女の人は、そんな魔法を自分にかけたところなのでした。
 目の前にいるのはエリヤさんです。このエリヤさんも、聖書を読むと、とても「惨めな」人であることが分かります。だけど、エリヤさんは自分に魔法をかける代わりに、神さまにこうお祈りすることが出来る人でした。「神さま、あなたは私をなにも持たない、空しい『惨めな』人間にして下さいました。ありがとうございます」って。でも、エリヤさんも最初からそうお祈りできたわけではなかったんだね。ケリト川のほとりでの、あの生活があったからなんだよ。そう、あの生活。エリヤさんは、この町にたどり着くまでの間、川の畔で何ヶ月も隠れて生活をしていました。そしてその間、本当は動けるのに、自分で食べ物を捜すことも出来ず、黒くて不気味なカラスによって養われていました。自分で動けるのに世話をしてもらうって、とっても歯がゆいことなんだ。でも、神さまがそうお命じになる。あなたは「惨めな」人間になりなさい、ってお命じになる。その生活があったから、エリヤさんは「神さま、私を『惨めな』人間として下さって、ありがとうございます」ってお祈りできる。
 エリヤさんは、神さまにこうお祈りしました。「神さま、この女の人を、なにも持たない、貧しい人に、本当に『惨めな』人にして下さい」。そして子どもを抱きしめたら、子どもが息を吹き返しました。
 女の人も分かりました。子どもも、何もかも、自分が持っていると思っていたものは、神さまが私に与えて下さったものだ、って。自分でもとから持っているものなんてなんにもないんだ、って。
 この女の人は、もう自分で自分に惨めになる魔法をかける必要はありません。だって、神さまの前に立った時、誰でもみんな、本当に「惨めな」人間にされるのだから。
           (玉川平安教会伝道師 上田彰)

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