日本基督教団信仰告白もくそう


 「も」と「くそう」の間に読点を入れてもいいです。
ver0.01 99/03/17(水) 13:08
 我らは信じかつ告白す。

 「信じかつ告白す」は「信じる」ことと「告白する」ことを固く結びつかせています。「信じる」ことは信仰義認です。「告白する」ことは聖化の一つ(しかも重要な)と言っていいでしょう。この二つは、ロマ書10章において「心で信じて義とされ口で告白して救われる」とあるとおり、救済の両側面を示しています。この場合の順序は重要です。義認を突破口にキリストにとらわれた者が告白するのですから、その逆ではありません。


 旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示
し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、
救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りな
き規範なり。


 第一段落は宗教改革の諸信条の順序にならって、「聖書正典」についてです。
 「旧新約聖書」という順序は、1890年日本基督教会信仰之告白の中では「新旧約聖書は」と言い表されているのと異なる順序になっています。この順序について日本キリスト教会信仰の告白(1953年制定、1985年一部改定)は「新約の光に照らして旧約を読むのだから」(五十嵐喜和氏、「日本キリスト教会35年」)という理由で結果的に1890年の順序に倣ったのと好対照です。「旧新約聖書」というのは救済史の順序にならってのことでしょう。たしかに私たちはキリストの福音なしに今日旧約の律法を受容できない存在ですが、認識の順序ではなく啓示の救済史的順序をとっていると言うこと、認識と存在という哲学的な二分法で行けば存在の順序にならって告白していると言うことは、実は第二段落でもう一度問題となることでしょう。
 「神の霊感によりて成り」「聖霊によりて」と二カ所で聖書が神の言葉であることが告白されています。これは聖書が神の言葉であることを告白すれば、それで十分だという意味です。もちろん私たちは聖書が人の言葉によって書かれたことを否定しません。ここでは聖書が「キリストを証しする」ものであり、それ故に聖書がキリストに似たものとなることを言っています。キリストは全く神にして全く人。その人性は神性の外になく、神性の中にある。このカルケドン的言葉遣いによって、「神の言葉」のうちに「人の言葉」が内包され、私たちが人の言葉としてだけ聖書を読むことが不十分なこと(それはちょうどキリスト者の「業」だけで伝道できないことと同じです。このことについては後述)がわかります。

 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神
は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の赦
ひのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささ
げ、我らの贖いとなりたまへり。


 「イエス・キリストによって啓示された」「三位一体の神」とはいったい何なのでしょうか。3の中に1があるのみならず、1の中に3があるというのです。ふつうそれぞれの位格が他の位格の中にあることを「相互内住」(ペリコレーシス)と言うことを私たちは知っています。しかしここではキリストについてだけが告白され、しかも一つの位格が三つの位格を同時に内包するという告白の仕方をとっています。
 一方でこれは認識の問題に限定された告白だ、という言い方ができるでしょう。
 一方でこれは存在の問題についての告白だ、という言い方ができるでしょう。
 他方でこれは認識と存在の両方の問題関わる告白だ、という言い方ができるでしょう。
 「啓示」を認識にとどめてしまっていいのでしょうか。私たちは認識だけ新生を迎えるような存在なのでしょうか。

 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を
赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果
を結ばしめ、その御業を成就したまふ。


 第三段落は「義認と聖化」です。この段落において人間論が語られているという言い方もできるでしょう。
 この段落の最初が「恵みによる選び」であることは重要です。この信仰告白の中で頻繁に使われ目立つ言葉の中に「恵み」という言葉があります。これは、教派によっては「聖霊」という言葉によって表現されるところです。日本基督教団信仰告白はキリスト論重視の立場をとるので、あえて「恵み」という言葉でいけるところは全部行ったのだと思います。恵みとは神の業であるとともに、神そのものを示します。ただし、この「恵み」の「私たちの内への内住」についてはこの信仰告白は一言もふれていません。ちょうどイザヤ書7章で外部に主のしるしを求めず自分の内側の信仰に頼ろうとするアハズ王に対し、「神が私たちのそばにおられる」という預言があったのと同じです。その「恵み」が私たちのそばにいること、それが選びのしるしだというのです。それゆえ私たちの教会からキリストがいなくなったら、その瞬間教会は教会でなくなってしまうでしょう。私たちが自分の力でキリスト者になるのなら、私たちはもっと傲慢に振る舞った方がいいでしょう。しかしそうではないのです。自分の内部に選びの根拠がないということ、つまり「選びはわれらを謙虚にする」のです。
 「この変わらざる恵みのうちに」はこの信仰告白の大きなアピールポイントになっています。「うちに」は結局「聖化が恵みの内部にある」ことを示しています。固く結びついているというだけでは不十分なのです。恵みなくして聖化なしと言うだけでは不十分なのです。それなら恵みと聖化とを混ぜてしまうローマ教会の神学で十分でしょう。私たちは結局恵みと聖化とを区別する必要があるから福音主義教会にとどまり続けているのです。しかし恵みと聖化とを切り離すことはできない。区別はされるが切り離してはならない。カルケドン・テーゼをより積極的に言い換えればこうなるでしょう。
 「恵み」をかっこに入れてしまう人がいます。その方が伝道がしやすいとかその方が他宗教との共存が容易だとか言う人がいます。私たちは教会の中で「信仰があるのは前提だからその上で何をするかが重要だ」と言ってはいないでしょうか。その前提は、「何をするか」を本当に規定しているでしょうか。いつの間にか空気のように忘れ去っていないでしょうか。
 あるいは、神の完全な義になぜ私たちの不十分な愛を付け加えなければならないのでしょうか。私たちの不十分な愛は神の恵みの中におかれたときに、完全なものとなるのです。

 教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は
公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を
執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。


 お休み

 我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イ
エス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポン
テオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府
にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の
右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまは
ん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよ
みがへり、永遠の生命を信ず。                 アーメン。







  • 根源に立ち返ってトップへ
  • 「教憲教規」へ
  • 「上田は何者なのか」に戻る