98年7月26日説教


JOH01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
JOH01:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
JOH01:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
JOH01:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
JOH01:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
JOH01:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
JOH01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
JOH01:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。




聖日礼拝説教



 太郎くんは、教会学校に行っています。教会学校の先生のお話を、先週も聞きました。
 今日は、なぞなぞです。この世で、一番、硬い物質って、なんだ?

 先生は、なぞなぞが大好きなのです。みんなが、答えました。

 世界で一番硬い物質って、ダイアモンドでしょ?

 そう、ダイアモンドは、確かに世界で一番硬い物質です。でも、一番硬いというだけで、こわれることもあります。じゃ、世界で一番頑丈なものって、どこにある?…誰もわかんない?じゃ、この答えは来週ね。来週も教会に来るんだよ。

 太郎くんは家に帰りながら考えました。

 いっつも先生は一番肝心なところをまた来週ね、っていうなあ。それにしても、世界で一番頑丈なものって、どこにあるんだろう?そうだ、庭石を売っているお店があったっけ、ちょっと遠回りになるけど、寄ってみよう。あ、あれだあれだ。ごめんください。

 へいいらっしゃい。毎度あり。おや、坊や、何の用だい。

 いや、ちょっと調べたいことがあるんですけど。

 わかった、坊や、夏休みの宿題だろう。宿題を早く終わらせたいというのは、いい心がけだ。

 あ、学校の宿題じゃないんです。教会学校にぼく行ってるんですけど、そこで「世界で一番頑丈なもの」を探して来いって、言われたんですけど。

 世界で一番頑丈なもの?そりゃ、ダイアモンドだろう。ここじゃ扱ってないよ。

 あ、いや、そうじゃないんです。なんて言ったらいいのかなあ。やっぱりお店間違えたのかなあ。

 そうかい、また何か考えたらうちにおいで。

 太郎くんはおうちに帰りました。その日夕食の時、太郎くんは、お父さんに聞いてみることにしました。

 お父さん、世界で一番頑丈なものって、どこにあるの?

 またそりゃ、どこで考えた質問だい?

 教会学校で聞いてきたんだ。

 そう言われて、ぴんときました。お父さんは、教会で役員をしているからです。

 お祈りをするときに、手を組むだろ。

 うん。

 それが、一番頑丈なもの。

 ぇ

 だって、お祈りをする時って、イエス様が一緒にいるだろ。イエス様がお祈りの時に一緒にいてくれるんだったら、一番頑丈なものって、それじゃない?どう、わかった?

 あんまりわかんない。

 そうだね、じゃ、こう言うのはどうかな?この前教会で、「私はぶどうの木」ってやってただろ?「私につながっていなさい」って言ってただろ。

 うん、それは覚えてる。

 ぶどうのみきにつながっているぶどうの枝って、頑丈なんじゃない?神様が「私もあなたがたにつながっている」っておっしゃってるんだよ。それ以上に難しいことは、今度教会の大人の礼拝で先生が説教をするらしいから、それを聞きにおいで。

 太郎くんには、やっぱりよくわかりませんでした。世界で一番頑丈なものが何で自分のすぐ近くにあるのというのが、少し信じられませんでした。でも、これを聞いて、少しうれしい気もしました。太郎くんは、次の週の大人の礼拝に出てみることにしました。


 「その翌日」。今日の箇所は、日付を意識する言葉がその冒頭にあります。見てみれば、今日の箇所の前の箇所、29節から始まる一連の箇所もやはり「その翌日」で始まり、そして次の箇所である43節からの一連の箇所も同じく「その翌日」で始まります。人々は、日々、新しくされていきます。新しくされる、ということは、変わる、ということです。主イエス・キリストはおっしゃいました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:4)。私たちは日々、新たに生まれ変わるのです。日々新たに生まれ変わるということは、日々神の国が近づく、ということです。日々イエス・キリストが支配し王であられる国、神の国が近づく、ということです。そしてこの日も、また神の国は、ここに出てくる者たちのところに、近づいてきました。洗礼者ヨハネと、その弟子二人のところに、であります。
 主イエスが歩いておられます。洗礼者ヨハネは指さします。「見よ、神の小羊だ」。かねてから私が言っていた、神の小羊。毛を刈る者の前で物言わない小羊(使徒8:12,イザヤ書)、きずや汚れのない小羊(ペテロ前書1:19)。まことに、世にたった一匹しかない尊い小羊の血の重さは、地上のすべての血に値する重さを持っています。それは、神の御一人子の血だからです。神の御一人子の血は全世界の生きとし生けるものの血よりも重い。よくそう言われます。それは間違いのないことです。でも、それでは、まだ不十分です。本当は、こう言わなければなりません。現在の、単に現在地上に生きている者の血のみならず、神が世界をお作りになったときから、その世界の終わりに至るまで、その地上で生を受けたすべてのものの血、それに匹敵する重さを持ったのがこの小羊の血である。私たちのために血を流す小羊であられる主は、私たちの永遠の救い主です。今、この場限りの、救い主ではありません。聞いて回ればわかりますが、そんなことをいう人は、一人もいないでしょう。「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」とマタイの福音書の最後で主はおっしゃいました。それは誰もが知っています。しかし、よく考えたら、いつも共にいる、生きるときも死ぬときも、世界のはじめの時から終わりの時まで、永遠に、主が私たちと共におられる。主は、私たちの永遠の救い主です。私たちには、今信じている私たちの主が現在、この場限りの救い主であるなどと遠慮気味に躊躇した物言いをする必要はありません。
 これは遠慮と言うよりも、むしろ、不安ではないかと思われます。この世には、移ろいゆくはかないものが満ちています。それを私たちは当然のように受け入れています。そのようにしているうちに、移りゆくものの方に何か安心感を覚えて、本来しっかりと頼ることの出来る永遠のものがあると聞くとかえって不安になってしまうようです。
 今日出てくる二人の弟子も、またそのような不安を持っていた者たちだったようです。そのことは、主イエスに対する呼びかけに、はっきり現れています。「ラビ」、訳していえば、「先生」、あるいは、「師匠」。恐らく弟子たちは、いきなりの主イエスからの問いかけに、どぎまぎして、どうお呼びすればわからなかったのでしょう。もし「あなたがたは私を誰と呼ぶか」、主がそういう形で問いかけたのなら立派に「あなたこそ神の小羊」と彼らもはっきりと言ったかもしれません。しかし、そうではなく、何気ない語りかけの時、その人の信仰は現れます。アンデレともう一人の弟子は主イエスに対してどう呼びかければよいのかわからなかったのです。
 「先生」、その呼び名は、永遠にして唯一なる救い主に対する呼び名としては、あまりにも軽率でありました。精々のところ、一時的な救い主、という意味以上ではありません。この時点の二人には、その程度の認識しかなかったのです。不安定なものに対して、妙な安心感を覚え、逆に安定したものに対して見慣れない心地悪さを感じる。だから、この二人が次に何を聞くかといえば、多少予想はつくというものです。
 「どこに泊まっておられるのですか」。考えてみれば、とんちんかんな質問です。あの洗礼者ヨハネが、自分たちが今まで従ってきた洗礼者ヨハネが、この福音書から消え去る直前に渾身の思いを込めて指さしたお方、永遠の救い主に対して、この二人のものはなんと軽薄な質問をしていることでしょう。しかし、この質問は、実はこの二人のものだけでなく、聖書の中でイエスと対話する、ほとんどのものがしている質問とまるで同じなのです。ちょっとここで考えてみたのですが、この箇所で、主イエスに「あなた方は何を求めているのか」と聞かれて、他に、どういう答え方があったかを考えてみました。ヨハネによる福音書の中でしばしば出てくる言葉に「永遠の命」というものがあります。イエスは、永遠の命を私たちに与えるためにこの世にやってきました。永遠の救い主は、永遠の命を私たちに与えることが出来るのです。だから、ここで「私たちは永遠の命を求めているのです」という答え方が出来るか、考えてみました。そのために、「永遠の命」という言葉をずっとヨハネによる福音書の中を探してみました。だいたい25回前後(永遠を意味するただの「命」を含め)出てまいります。その一つ一つを検討してみました。そして、永遠の命を求める者が本当にいるのかどうか調べてみました。そうすると、面白いことがわかったのです。ヨハネの見方は痛烈です。皮肉なまでに痛烈です。6章68節のただ一つの例外を除いて、すべての用例が「私は永遠の命を与える」か「私は永遠の命である」といった形でしか出てこないのです。たびたびこの福音書で出てくる「永遠の命」は、いつもその度に、「与えられるもの」としてしか出てきません。永遠の命を求める者を見出すのは、困難なのです。だからここでもそうです。イエスは言います。38節後半。「何を求めているのか」。二人は、永遠の命を、とは答えず、そのかわりに、「どこに泊まっているのですか」というやや的外れな質問をするに過ぎないのです。
 しかし、そのような彼らに対して、主は懇切丁寧に答えてくださいます。「来なさい、そうすればわかる」。「彼らはついていった」。
 彼らはイエスがどんなところに泊まっておられるかを見ることになります。聖書にはその時刻がはっきりと記されています。そこで用いられている数字は、10という数字は、約束の成就を示す数字です。約束が成就されたとき彼らが見た、イエスのおられるところとは、いったいどのようなところだったのでしょうか。聖書にはこの箇所ではこれ以上の記述がありませんから、私たちは想像するか、聖書の他の箇所をひもとくしかありません。想像によって聖書を読むよりは、聖書によって聖書を読む方がよい気がします。もっとも参考になるのはルカですが9章にある言葉です。

 LUK09:58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

 人の子には枕するところもない。主は、私たちのために、夜を徹して祈っておられます。ヨハネによる福音書なら、このような箇所があります。

 JOH05:17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

 イエスの宣教のわざ、それは祈りのかたまりでありました。祈りのないところにイエスの宣教活動はないといってもいいくらいです。そして、天地を造られた万物の主である父なる神が絶えずこの地球を動かしわたしたち生きとし生けるものに命を与え続けておられるのだから、主もまた休むことなく働き、祈るのです。
 そうだとすれば、この新共同訳が「泊まっている」と訳している箇所は、再検討が必要です。実は、ここにレトリックが用いられています。二人は、恐らく確かに主イエスに対して宿泊している場所について尋ねています。二人はあとを従って、「どこにイエスが泊まっておられるかを見」ました。しかし、そこで主が休み、寝られる場所ではなく、祈っておられる現場を見た彼らは、もはやそこに、その日イエスのもとに一泊し休んで寝た、とは言わない、言えないのではないでしょうか。弟子たちはイエスのもとにいた。イエスのもとにとどまった。そのように言った方がいいのではないでしょうか。泊まる、という言葉は留まる、と訳してもいいのです。もともとイエスは最初から泊まって休む場所ではなく、とどまる場所を教えるつもりであり、そして、彼ら二人もイエスと共に祈り、イエスと共に語る中で、同じ場所に宿泊するのではなく、とどまることにこそ意味があると思い始めたのではないでしょうか。
 そのとき彼らは気がついたはずです。私たちは今、神のそばにとどまっているのではないか。聖書にはこうあります。

 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。JOH01:18

 この方の祈りは、何を指し示しているのだろう。そうだ、神だ。このお方は祈りによって神のそばにとどまり続けるお方だ。そして、私たちは今、そのお方と祈りを共にしている。私たちも神のそばにとどまっているのだ。もはやどこかにより新鮮な教えをもたらす先生を探しに行く必要はない。冒頭で太郎くんがそうしたように、より頑丈なものを求めていろいろなお店に行く必要もない。ここにとどまればよいのだ。洗礼者ヨハネが、かつて私たちの先生であったヨハネが指さした人、この方こそ救い主、永遠の救い主、彼らはそう信じたことでありましょう。彼らは主にあって新しいわざを始めることになります。

 JOH01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

 シモン・ペテロの兄弟であったアンデレがそれを信じてからすぐにしたことは、自分の兄弟に伝道をすることでありました。「私たちは、メシアに出会った」。簡潔な、しかし力強い言葉です。もうそこには「先生、どこにお泊まりですか」という言葉の裏に見え隠れしていた不安はありません。「私たちは、永遠の救い主のもとにとどまっている」。彼らはそう強く確信していました。もう、救い主を求めてふらふらとさまよう必要はない。様々な人を求め、様々な人に従ってついていく必要はもうない。このお方のもとにとどまっておればよい。このお方のもとに人々を導けばよい。初めて、アンデレは自分の兄弟を真(まこと)の永遠の救い主のところに導く役目を果たすのです。続けてお読みします。

 そして、シモンをイエスのところに連れていった。イエスは彼を見つめて

 イエスは、シモンを見つめます。主によって見つめられ、その視線に刺し貫かれ選び取られたものは、真の主の弟子となります。そしてシモンを弟子にするために、主はシモンに新しい名前を付けます。その名前は、ケファ。訳してみれば、岩、すなわちペテロ。今まで一度も呼ばれたことのない名でシモンは呼ばれ、彼は一生、この名前を名乗ることになります。シモンは岩だったのか、あんなにふらふらしてこんなに挫折して失敗して、しかしそれでも岩だったのか。そもそも彼はなぜ「岩」なのか。
 それは恐らくこうであります。岩、それは動かないもの。あなたは動かないものである。苔が生えるぐらいに動かない。私のそばから離れない。あなたは岩だから、私のもとにとどまるのである。「この岩の上にわたしは教会を建てるMAT16」(本教会今年度標語)、そう主イエスはおっしゃいました。岩も、ただ大きいだけでは、ただ堅いだけでは、その上には教会は建ちません。主のそばにとどまっている岩だけが、まことの神の教会を建てるにふさわしい岩です。ペテロよ、あなたは、岩だ。
 この岩の上に教会が建つのです。真の教会とは、イエス・キリストから離れない教会です。イエス・キリストのそばにとどまって、イエス・キリストから御言葉を聞き、イエス・キリストと聖餐の食卓を囲む群、それが教会です。岩の上に立てられた教会です。


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