98年8月23日説教
JOH02:01三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
JOH02:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
JOH02:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
JOH02:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
JOH02:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
JOH02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
JOH02:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
JOH02:08イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
JOH02:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
JOH02:10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
JOH02:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
JOH02:12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
聖日礼拝説教
「カナでの婚礼」
カナの婚礼!私たちは今、喜びの宴の中にいます。
カナの婚礼!想像してください。その会場の真ん中には、花嫁と花婿がいます。花嫁は真っ白なウェディングドレスに身を飾り、ややうつむき加減でいます。花婿は厳かで幾分気恥ずかしそうに黒の礼服に身を固めています。厳粛さの中に、喜びがあります。既に宴は、何日かの間、広げられていたともいわれています。
食卓には、目を見張るばかりの食事と、ワインのグラスがあります。二人の両親は、金持ちなのかもしれません。それは大きな豪邸でなされた宴でした。そこには何人かの執事と、何人かの料理人がいます。食事やワインを次々と運び込んでいます。そしてそこにはイエスの母親であるマリアの姿がありました。招かれた客でありながら両人と親しい間柄にあったマリア。厨房の近くで、給仕に食事の指示をしています。招かれた客の中には、イエスの姿が見えます。そのそばには、弟子となった者の姿を見ることもできます。彼らは最初の日からこの宴にいたわけではありません。イエスと弟子たちは、今日着いたのです。これで舞台はそろいました。
カナの婚礼!これは、この前の記事から数えて3日目のことでした。3日。それはいろいろな意味を持っています。ヨナが魚の中にいた日数。キリストが墓の中で寝ていた日数。今日の記事で、3日という数字は、ベタニアからここまで@、ヨルダン川沿いのベタニア村からこのガリラヤまでの移動日数です。徒歩での移動なら、この距離を3日でこなすのは、精一杯です。この三日の間、イエスとその弟子たちは、歩き続けました。3日という数字は、もうそれで十分である、それでたくさんである、という日数です。彼らは、十分歩き続けたのです。それは主と弟子たちが歩む生涯を暗示しているかのようです。彼らは十分に歩き続けた。そしてついたのは、ここ、ガリラヤの、カナです。
カナの婚礼!イエスとその弟子たちを待っていたのは、喜びの宴でした。実は、聖書のこの箇所には、大きな秘密が隠されています。
JOH01:19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
JOH01:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
JOH01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
JOH01:43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
そして、それから三日。最初から数えれば、ちょうど、一週間です。私たちは、記憶の奥深くに、この日数をまた思い出すことが出来ます。それは、天地創造の物語です。一日目、朝と夜が。二日目、大空が。三日目、大地と海が。四日目、星と太陽が。五日目、魚と鳥が。六日目、人間が。七日目は、主の安息の日です。ヨハネの福音書は、またこの一週間を描きます。創世記のそれが創造のための一週間であるとするならば@、ヨハネ伝のそれは再び創られるための一週間と呼んでもかまいません。なぜ私たちは再び造られなければならないのか。天地を造ったときの様子を描いた創世記の記者は、こう叫んでいます。
GEN01:31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった[美しかった]。[]内私訳
しかし、人間は、せっかく美しく造られたというのに@、神によって造られたその美しい姿を自らの手によって醜くしようとし@、そのために主から離れようとしたのです。それがアダムとエバが最初に犯した罪でありました。
JOH03:03,05イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
私たちは、新たに生まれる必要があるのです。神によって新たに生まれ変わる必要があるのです。
主のわざは、6日ののちにおえられました。イエスたちがカナに到着した日、そのわざは安息を得たのです。
カナの婚礼!それは主が創造のわざをおえられた日の、喜びの宴なのです。この喜びは、どこから生まれる喜びなのでしょうか。実は、このことを、この夏期伝の間、ずっと考えていました。なぜ、カナでの婚礼は、喜びなのか。それを何にたとえたらよいのだろうか。そしてこの箇所を何回も読んであるいは@この福音書全体を何回か読んでいて浮かんだことがあります。カナでの婚礼、それは@、私たちが自由になったときの喜びと似ているのではないでしょうか。自由になったときの喜び。それは、主が私たちにも「あなたの罪は許された」という言葉を発し@、私たちがそれを受け入れるときの、喜びです。それを与えて下さったのは、主です。
今に至るまで、父なる神が働いておられる。また人の子が、枕するところもないほどに働いておられる。私たちが自由を得、神が休まれたとき、私たちはその神に許されて、また安息の時を@、喜びの時を、持つことが出来るのです。
そうであるが故に、この3節にあります事件。それは、そのような安息の時の喜びを妨げる、大事件であったのであります。ぶどう酒がないということ。それはそのままでは宴を続けることが出来ないことを意味していました。イエスたちが来たときに、宴は突然の終焉を迫られていたのです。
その日、この宴の手伝いをしていたのは、イエスの母マリアでした。今日初めて来た宴の席で@、主イエスは自分の母から宴の終わりを告げられそうになったのであります。しかし、マリアに与えられた権能は、それほど大きくありません。それが出来るのは、この会の世話役、つまり宴の招き人だけです。おそらくは、マリアは@ここで今日になって遅れて来た自分の息子にちょっと断りを入れてから@、ぶどう酒を買ってこさせるか、それとも宴をちょっと早めに切り上げるかの相談を@、この世話役に持ちかけるつもりだったのでありましょう。しかし、主イエスは、こう言います。
JOH02:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
私の時、それは人の子が栄光を表す時。それが来ていない以上、宴は終わらない。あなたが関わってこの宴をやめさせることは出来ない。だからこの時、主イエスはこの聖書の中で、はやこの宴の主人公になりかかっています。静かに、しかし確実に、栄光を携えて、人々の前に主がそのお姿をはっきりと表すのです。
イエスの母はとっさに召使いたちに命じました。「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」。母はイエスを見守ることにします。この宴の世話役に相談する前に、この息子イエスの行動を見守ることにするのです。それがマリアの信仰であったか、それともとっさの判断であったのか@、そのようなことにこのヨハネ福音書の記者は関心を示しません。舞台の幕を引く役目を負っていたかもしれない人物は@、こうして次の舞台の演出者となって、そして消えるのです。もはや、この箇所においてイエスの母マリアはこの話題に登場しないのです。命令通り動いた召使いをあとでねぎらうマリアの姿を記者ヨハネは描こうとしないのです。そして焦点は主イエスに移るのです。
主イエスは、立ち上がります。今や、宴の中心人物は、はっきり変わりました。召使いは、もう、このことをすっかり承知しています。奇跡が起きる前から、彼らはイエスの命令を待ち受けているのです。海を静め、山をも動かす方が、今、彼らに言葉を発しようとしているのです。
「水瓶に水をいっぱい入れなさい」
静かな言葉です。言葉は、静かな、命令なのです。しかし、その静けさの中で、時に主は天地を揺るがすような大きな命令をするのです。しばしば、私たちはこのような天地を造られた主の、大いなるみ業に賛美を献げます。
しかしいつの間にか、大いなるみ業の方に目を向けてしまって@、自然の美しさや神の命令によって動く人々そのものに目を向けてしまって@、その業をなした主のことを忘れることがあります。これは、しばしばあることなのです。私たちが聖書から離れて主を賛美しようという誘惑に駆られたとき@、聖書はいつもその欲求をはねのけます。今日の箇所がそのよい見本です。恐らくこれだけ大きな水瓶に水を入れるには、相当の時間がかかったと思われます。それに対して、この命令を発した時間というのは、わずかです。私たちは、この命令によって動いている召使いに興味を抱くかもしれません。しかし、聖書はそのような召使いに関心を持たないのです。あるいは、このあとで水がぶどう酒に変わったという奇跡そのものにも@関心を抱いていません。主の命令によって動く人々や、その主の命令の結果に関心を抱くのではなく、そうではなく@、この短い、静かな命令を発した主に、あるいはその主の御言葉である命令そのものに、@大きな関心を抱いています。
そして主は言うのです。
「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。
「さあ」という言葉は、今、という時を表しています。主のみ業が明らかになるときのことです。それが、今だ、と主は言うのです。
ここで宴会の世話役の役割は、重要です。恐らく、この世話役というのは、社会的にも上層階級の人で@、あとで出てくる花婿の目上の人であると思われます。当時は、このような形で世話役が婚礼を仕切る全責任を負っていたのでしょう。
生粋のユダヤ人であった世話役は、この婚礼の宴を、@あくまで伝統に則った形で運営しようとします。
JOH02:10(世話役は)言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
もっともはじめにあるものが、もっともいいものである。それ故に彼はモーセを、そしてアブラハムを尊敬していました。しかし彼の目には、モーセよりも先におられた方である、この神の御一人子@、イエス・キリストの姿は映らなかったのです。まさに新しいぶどう酒をそそぎ込まれた古い革袋のような有様でありました。より古いものに目をやろうとしていながら、もっとも根元的なものに思いが至らないのでした。この世話役の果たした役割は、この古い革袋のような役割でした。
しかし、もう一つ、古い革袋には重要な役割が負わされています。それは、この世話役が「味見をした」という9節の箇所です。
このヨハネ福音書では、みる・聞く・かぐ・味わう・触るという、五官に対して@、強い関心を示します。今日の箇所ではありませんが、ベタニアにいたマルタの妹であるマリアの話です。
JOH12:03そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
この記事は、4つの福音書いずれにも出てくる、有名な記事です。しかし、このヨハネだけが、この「家は香油の香りでいっぱいになった。」ということを付け加えるのです。これは、嗅覚に対するヨハネの関心を示します。香油の香り、それはイエス・キリストの香りではないか。「家は、キリストの香りでいっぱいになった」。ヨハネはそう書きたいかのような気さえしてきます。
そう見て参りますと@、ヨハネ福音書全体を見回して、味わうことにもっとも関心を持っているのは@、この箇所です。そして、それを味わったのは、この世話役なのです。
JOH02:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。
こう読み替えることが出来るのではないでしょうか。「世話役は、イエス・キリストの味見をした」。この古い革袋を通じて、キリストは自らの味をこの世界に告げ広めたのです。
今日の後奏で、私たちはすばらしいヴァイオリンの音楽を聴くことになっています。神の一人子の死とよみがえりを知る宗教は、真の芸術の宗教にもなるのです。それ故に教会では芸術家に対して拍手はしません。ただ神にのみ栄光を帰すためなのです。
さて、もしどなたか絵を描いて下さる方がいて@、今日の箇所で絵を描いて下さるとしたら、ぜひ、この場面を描いて下さい。他の場面ではだめだと思います。マリアがイエスに事情を話している場面@、イエスが召使いに命令をしてあわただしく召使いがその命令を果たしている場面。いずれも、絵になりません。なるのは、ここだけです。世話役が味見をしている場面です。
味見をしているぶどう酒、それはイエス・キリストの味がする。絵の中に味を書き込むことは出来ません。しかし、私たちはこの絵を書くときに、必ずこの時イエス・キリストが@どんな味だったのかを知っていなければなりません。
JOH02:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。
これは、最初のしるしだ、とあります。だから、これはイエス・キリストが最後の真実の栄光を示す前の、@予兆としての栄光だ、ということになります。はっきりとした栄光は、最後の時まで待たなければなりません。しかしここで、主が最後の栄光の時に何をなさろうとしたかを知ることが出来るのです。ぶどう酒、それは血の予兆です。イエス・キリストが実際にその血を流されたのは、十字架の上です。兵士によってそのわき腹に槍を突き刺され、血と水とを流した、JOH19:34にはそう書いてあります。
それは、この世がもっとも必要としているものを、主が差し出した、ということです。この世がもっとも必要としているもの、それは@、主が美しく造って下さったこの世界を、そして何より私たち自身を@、もう一度美しくする、ということです。その血とは、「あなた方の罪は許された」という主からの語りかけに他なりません。私たちはその主からの語りかけを聞き、喜ぶのです。そしてその喜びが、美しさになるのです。御子の血が、十字架上で流された御子の血が、再びこの世を美しくするのです。そしてもう二度と醜くならなくて良い。絵には描けないこの血の味が、この世界を神の栄光によって美しくするために、どうしても必要であることを、私たちは知っています。
世話役が味見をしている絵。世話役とは、この世の人間の代表です。世話役は、この良いぶどう酒に驚くのです。なぜこのような良いぶどう酒があるのか、驚くのです。あってはならないことだ、と驚くのです。この世は、この良いぶどう酒を待っていたのです。この世話役が、伝統的なユダヤ教の教えしか知らなかったこの世話役が@、その驚きを世界に伝える最初の人に期せずしてなるのです。
この絵には次にイエス・キリストを描き込んで下さい。そして花婿を描き込めばいいでしょう。まだ余白があります。本当はマリアや召使いたちも描かないといけないのかもしれません。しかしまず、私たち自身の姿を描き込みましょう。そうこの福音書記者ヨハネは勧めています。私たちが今まで描いたこの絵の中をじっと見ていてもそのきっかけは見つかりません。この絵には現れていないものに、ヨハネは招きの鍵をおいています。それは、奥においてある石の水瓶です。
JOH02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
ヨハネは、関係のないことは、出来るだけ簡潔に書こうとします。聖書全体が、そうです。ここでもまた、状況を簡単に記します。しかし、水瓶には言及しています。そして、この二ないし三メトレテス入りの水瓶6つというのは、明らかに大きいです。仮に100リットル入りの瓶だとしても、相当大きいことになります。その水瓶が6つというのです。平田先生がエルサレム旅行に行かれたとき、このカナを訪れたそうです。そこにあった瓶は、手で示せるぐらいの大きさの、瓶だったそうです。しかしどうしてもこのヨハネは、この瓶の大きさと数の多さを示したかったようです。ある聖書の註解書では、この石瓶の大きさを解説して、ユダヤ人が儀式のために使うものとしては、大きすぎるのではないか、しかもなぜ6つも必要なのか。そんなには必要ないはずだ、といっています。しかし私たちは、後世の解説よりは、この聖書そのものを、信じてよいと思います。解説をもとにして聖書が出来たのではなく、聖書をもとにして解説が生まれたからです。
同じような間違いを、私たちは、いや、少なくとも聖書学者たちは、しばしば頻繁に起こします。たとえば、この箇所を、ギリシャ神話から解き明かそうとする試みがあります。聖書が書かれるより以前にギリシャにあった神話によれば、2月の上旬に行われる祭りで、神が現れるときに水を酒に換えるといわれる祭りがありました。だから、ヨハネはそれを参考にしてこの話を作ったに違いない。
あるいは、こういうものもあります。イエスが宣教を始める以前に、ユダヤ教の中の神秘性を重んじた教派があります。偶然手元に資料がありましたので、朗読します。
> エッセネ派では、完全なメンバーになると、パンと葡萄酒からなる「共同
> 体の食事」に参加することができたが、異邦人は改宗しても洗礼を受ける
> だけでこの共同の食事には参加できなかった。イエスは、この定めを無視
> して、異邦人が葡萄酒を飲む食事に参加できると宣言し、それを実行に移
> した。これが「カナの婚宴」で「水」(洗礼)が「ブドウ酒」に変えられ
> たという「奇跡」の歴史的内容である。(バーバラ・スィーリング『キリ
> スト教の謎』(新人物往来社刊)35ページ以下)
一見なるほどと思わせる説明です。しかし、そのような説明によって、本当に聖書を理解したことになるのでしょうか。ギリシャのディオニソス伝説を知っていたからといって、クムラン教団について死海文書を通じて知ったからといって、それで聖書を知ったことになるのでしょうか。それは、聖書の外の視点から、聖書を知ったつもりになっているのに過ぎないのではないでしょうか。
私たちは、聖書から聖書を理解する必要があります。聖書の世界に入り込む必要があります。今日の箇所の中で、私たちが聖書の世界に入り込むきっかけは、この瓶の大きさです。この瓶6つにいっぱいに張られた水が、すべてぶどう酒になったのだから、@もはや宴に招かれている人だけでは、とても飲み切れません。
実はここには、招待されていないのにこの宴の場にいる人が@もう既にこの聖書の中にはいます。それは、弟子たちです。予定されていないのに、彼らはこの場にいたのです。聖書によれば、それは少なくとも4人です。しかし、まだまだ大丈夫です。ここに、私たちが入っていてはならないのでしょうか。私たちもまたイエスの弟子にされたのではないのでしょうか。キャンバスには書ききれない弟子の姿があってもいいのではないのでしょうか。イエスによって「あなたを岩のように硬くしてあげよう」と言われ、また「私に従いなさい」と言われた、あの弟子たちの一人に数えられるのではないでしょうか。
JOH02:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
これを見てイエスを信じたのは、弟子たちなのです。私たちもまたイエスを信じ、この宴の中に加わろうではありませんか。それは、イエス・キリストの血にあずかることでもある、そう言っていいのです。ぶどう酒を血として飲むところ、それは私たちの毎週の礼拝です。そこにおいて、ぶどう酒は尊い神の御一人子の血に変わります。
カナの婚礼!私たちはたった今、喜びの宴のただ中にいるのです。
カナの婚礼!
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