99年8月15日説教
JOH04:01さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
JOH04:02――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
JOH04:03ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
JOH04:04しかし、サマリアを通らねばならなかった。
JOH04:05それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
JOH04:06そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
JOH04:07サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
JOH04:08弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
JOH04:09すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
JOH04:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
JOH04:11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
JOH04:12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
JOH04:13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
JOH04:14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
JOH04:15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
JOH04:16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
JOH04:17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
JOH04:18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
JOH04:19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
JOH04:20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
JOH04:21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
JOH04:22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
JOH04:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
JOH04:24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
JOH04:25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
JOH04:26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
聖日礼拝説教
「「湧き出づる水――永遠の命の泉への招待――」
サマリア地方のシカルと呼ばれる町、今日、私たちはこの町に足を踏み入れてみることにしましょう。聖書は、そう私たちを招きます。聖書の招き、それは2000年の時間を飛び越えて、そして空間を飛び越えて、聖書の世界の中へと私たちを招き入れるものです。私たちは今日なぜこのサマリアのシカルと呼ばれる町にいるのか、それは分かりません。聖書が招いているからだ、と答えるよりほかはありません。聖書の世界、それは人間の勝手気ままな世界ではありません。人間が勝手気ままに振る舞って、ある時には勝手に親しそうにしていたかと思えば、ある時は勝手にいがみ合う、正反対な事柄がいとも簡単に起きるような世界、そのような世界が、自由勝手という名の刑罰を与えられた世界だとすれば、聖書の世界は、神の秩序がはっきり現れる世界と呼べると思います。神の秩序がはっきり現れる。
そのことは、今日の聖書箇所の最初の方にある、4節に現れています。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」。普段なら読み飛ばしてしまうような小さな言葉、「ねばならなかった」に注目してみたいと思います。なぜなら、地図の上では、シカルと呼ばれる町はむしろ回り道です。そして、そこに、主のみ旨があるのではないでしょうか。主はこの偉大なる回り道をなさっているのです。「サマリアを通らねばならなかった」。私たちは今日なぜこの町に自分たちが立っているのか分かりません。しかし、すべてをご存じの主は、ご自分がなぜ他ならぬこの町を、ほかならぬこの日の、ほかならぬこの時間に通らねばならないのかをご存じなのです。私たちにとって思い通りではないことも、主にとってははっきりとした目的がある。言い換えれば、神はそのなす事についてそれぞれはっきりとした意味というものをお持ちだ、ということです。「万事が益となって相働く」とあるとおりです。
道には、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸がありました。主は長旅の疲れで腰掛けてお休みになっていたのです。ヤコブの井戸は、長い伝統のある井戸で、多くの人々によって使われており、草で葺いた屋根がありました。主はその陰で休んでおられたのです。
向こうの方から女性がやってきました。水を汲むバケツを持っています。なんということのない風景です。ただ、この暑い昼下がりであるという点をのぞけば。ここには、何か特別の訳がありそうです。わざわざこの暑い時間帯に水を汲みに来る女性!特別な事情を思い起こさせます。いったい、この女はなぜこんな暑い時間に水を汲みに来るのか。いくつかの想像を巡らします。きっとこの女は朝とか夕方の涼しい時間帯に水を汲みに来るのを避けているに違いない。その時間には井戸の周りでは女性たちによる井戸端会議が始まって、その話し合いにどうしても参加したくないのだろう。気位は高いのかも知れないが、いやがおうにも噂の的になってしまうような女性なのではないか。私たちの想像は、この特別な事態について、この女性を中心に考えています。しかし、もっと特別な事態があることに、私たちは思いを向けなければなりません。そこに主が座っておられる、このことです。女がこの時間にやってくることが特別である以上に、主がこのときこの場所におられることの方が、遙かに特別なのです。しかし、主はこのときこの場所にいる必要があった。神の意図があって、ここにおらねばなかった。この女性は、自分としてはいろいろな事情を抱えて、その中で精一杯生きて、この昼下がりにこの場所に来ている。しかし主は、地上のあらゆる人のためにキリストの福音を伝えなければならないという、遙かに複雑な事情を持ちながら、この女に出会うために、遠回りをした。
そして女に話しかけるのです。
JOH04:07…イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
私はこの説教の準備をして参りながら、この場所に至って、はたと考え込んでしまいました。そしてこのあとを読み進んでいけば分かりますが、結局ここで主が求めたとおりにこの女性は主に水を渡すことはありませんでした。いったいこのときに主は何を求めていたのだろう、と考えたのです。似たような記事が旧約聖書の中にあることを思い出した方もおられるかも知れません。
1KI17:10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
神の人エリヤは、異邦人の町サレプタに入り、やもめに、水と、ついでパンを頼んだのです。しかしその家は貧しく、飢え死にの間際というような有様でした。ただ息子と一緒に死ぬことだけが残された礼儀と信じる女性です。それでもエリヤは、自分のためにパンを持ってくることを要求したのでした。ふつうならあり得ないような要求をするのです。
このサレプタに住む女の境遇は、今日のサマリアの女性と似ています。涼しい時間帯に行って噂の的になるよりは、わざわざ昼下がりの暑い時間帯に水を汲みに行く気位の高い女。その気位の高さは、一目見てユダヤ人と分かる男性を前にして、宗教者サマリア人の感覚を呼び覚まさせるのです。彼女は、何も言わずに黙って水を汲み、何も言わずにそれを渡して、自分の用を済ませてその場を立ち去ればいいのです。それが、言ってみれば、もっとも賢い方法です。余計な関わりをして面倒なことになるよりは、ずっと賢い方法です。気位が高いだけの女性であれば、そうしたことでしょう。しかし、女性はそうはしなかった。この、水をくれと頼んだ男性と関わることを本能的に選び取るのです。サレプタの女が水とパンを神の人エリヤにあげるということは、すべての食物を彼に差し出すということであり、全面的にエリヤを信頼することを意味していました。今日の聖書箇所でいえば、ただ一人のお方に一歩踏み出して関わり始めていることを示しています。エリヤがサレプタの女に求め、主がサマリアの女に求めたのは、この踏み出した一歩だったのです。この女性の一歩とはこのようなせりふでした。
JOH04:09…どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」…
「どうして」という問いが発せられるのです。それは、人間的な、あまりに人間的な問いであったといえましょう。誰しも、人間なら「どうして」という問いを立てようとするのです。人はどうして生きるのか、人はどうして学ぶのか、人はどうして恋をするのか、人はどうして老いるのか。人はどうして死ぬのか。それは、とても大事な問いでしょう。この女性、この私にとって、大事な問いでしょう。
しかし、決定的にこの女性に欠けているものがあります。彼女は「どうして」という問いを、自分の身の回りのことについてだけ発しているのです。決して、「この昼下がりになぜあなたはここにいるのか」あるいはもっと強くいえば「なぜ主なる神は私に関わるために今ここにおいでになるのか」ということを決して問題にしないのです。
本当に大事なこととは、答えよりも、質問なのかも知れません。そして彼女はその質問の仕方において、不十分な有様を示したのです。
だから主はおっしゃるのです。
JOH04:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を「知って」おり、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか「知って」いたならば、…
あなたが知るべきことは、そんなことではない、本当にあなたが知らなければならないこと、それは私が誰であり、神は何をあなたにあげようとしているのか、ということだ。そういって、この女性が発するべき本来の質問をしてみせるのです。
しかし、女の応答は、ちぐはぐです。なぜなら、女はこの主のおっしゃった最後の部分だけしか聞き取らなかったのです。
JOH04:10…その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
確かに女はそう聞きました。しかし、その言葉の意味とて取り間違えていたのです。「生きた水」、それを動かない、たまり水ではなく、川や泉の、つまり動く水、新鮮な水という程度の意味で聞いたのです。
この女には、サマリア人としての信仰があります。主の言葉は、このヤコブの井戸に対する冒涜であるように思えたのです。まるで、この井戸水は古い水で、もっと新しい水をあげよう、そう聞こえたのです。それ故に
JOH04:12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。…
彼女はそう言ったのです。私の先祖は、このヤコブの井戸から汲み上げられる水によって今まで生きて来た。私もずっとこの水によって生きている。伝統ある、信頼おける井戸だ。これ以上に伝統のある、信頼おける井戸はないはずだ。
JOH04:14…わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
「生きた水」という言葉の意味を、私たちは正しくくみ取りたいと思います。「生きた水」、もっと親しみのある言葉で言えば、「活水」、それは、命を与える水、ということです。そして、その活水とは、どのようなものであるかといえば、この言葉を原語に忠実に翻訳し直すことで分かります。それは、「飛び跳ねる水」という風に発音することができます。まるで生きたもののように、そして私たちが捕まえようとしてもその私たちの手をかいくぐって、まるで戯れるようにする水、しかし必要があれば水の方から私たちの方に向かって来て慰めを与えてくれる。「飛び跳ねる」とはそういうイメージです。それは、大胆に言えば、幼子の姿であり、私たち自身を幼子のようにしてくれるものです。幼子は、周りに頼らなければ生きることができない存在です。そして、周りを信頼して誰とでも、そして何とでも仲良くなれる存在です。
幼子のような水、の反対は、大人の水です。大人の水とは、計算高く、また「〜ではない」という否定形をよく使う水です。たとえば、15節で
JOH04:15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
といっています。この水は、「私が渇くことのない水」であり、「汲みにこなくてもいいための水」です。どちらも、「〜ではない」という否定形です。計算高く扱われる水です。
それに対して幼子のような水、それは「永遠の命に至る水」と14節ではいわれています。幼子のようにあるときは戯れ、ある時はとっくみあいの喧嘩をし、そしてそれをすっかり忘れて励まし合うことができる。湧き出づる水、それは地上においでになった主が私たちに与えてくださった絆です。それは聖霊のことなのです。
私は今ここまで説教を述べて、次に16節から20節まで省略をして、21節からの「御霊による礼拝」とは何か、という説き明かしをして、この講壇を降りようと思っていました。16節から20節までで述べていることは、今日の題にありますような「湧き出づる水――永遠の命の泉への招待――」というような題にはふさわしくないようなことが書いてあるからです。実際、私は一度この16節から20節までの暗い部分を省略して、説教を書き上げました。そして――パソコンでつくっておりますものですから――印刷をして、机の上に置きました。牧師室から見える教会正面のツリーの照明も消えたような土曜日の夜遅くです。私はもう一度パソコンの電源を入れたのです。もう一度書き直さなければならないような気がしたのです。
この女性についてふれるときに、16節から20節までにふれないで終わってしまうのは、実はあまりにも不誠実なのではないか。人間は誰しも汚らしいものから目を遠ざけようとします。この女性は、5回結婚を繰り返し現在は同棲をしているような女性です。まさにこの女性に対して主が永遠の命の泉への招待をしていることを、ついないがしろにしてしまっていたのです。この女が気位が高い女だ、と先程述べたことを思い出した時、まだ足りないことがあると思い直したのです。暑い昼下がりに井戸の水を汲みに来る女性。どうせ後ろ指を指されるのなら、それを気にしなくても良い昼に来る方がよい。それがこの女性の心境です。そう思うだけの気位の高さを彼女はまだ持っていたのです。もう自分のしていることの罪深さには十二分に気がついているのです。せめて、後ろ指を指されているのを気にしないで表を歩きたい。
この気位の高さはそのままでいいのか。私はこう考えました。人間が人間でなくなるときがあるという。たとえば雪山で遭難して食料もなくなり、後は同行する人を殺してその肉を食べる選択肢以外なくなったとき。あるいは戦中ドイツのユダヤ人収容所で同じようなことがあったと聞きます。人間は人間でいられなくなるときがある。まだその点この女性は人間性を保っています。この女性が最後の人間性を失うとき、それはこの女性が朝早く、あるいは夕方に井戸にやって来るようになったときだと思うのです。そして、もちろん誰とも話をせずに目を伏せて水を汲んで、そして後ろ指指されるのを意に関せずにそこから立ち去るのです。その方が肉体的には楽に決まっています。町からこの井戸までは、かなり距離が離れています。最後のプライドよりも肉体的な楽さ加減をとった方がよいと思うようになったとき、その女性の人間性は失われるのではないかと思ったのです。
しかし、あえて主はそのプライドを身ぐるみはがすのです。
JOH04:18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
よく考えてみたら、残酷なことです。後ろ指指されるのではなく、正面からその事実を指摘されるのです。罪にうすらうすら気がつくのではなく、はっきり指摘されるのです。罪に対して無感覚になるのではなく、むしろ鋭敏であれ。そう主は言いたいかのようです。この女性は、このときどこかに自分の身を隠したかったのではないかと思います。しかし、身を隠すものはなかった。このお方と正面から相対しなければならなくなったのです。
この女性が、次に主イエスのことを「預言者」と言い表すのは、故なしではありません。サマリア人にとって「預言者」とは、教師のことです。この女性は、教師に対して質問をする態度なら、何とかプライドを保ったままでいられる、とっさにそう思いました。教師とは、生徒に非があったときにそれをとがめる立場でもありますが、同時に質問を受けたら答えなければならない立場でもあります。この中に教師をしている方がいれば、そのことがよく分かるでしょう。そしてこの女性は、生徒としては相当ずるがしこい生徒であることもおわかりになると思います。彼女にとって、今主イエスと相対して、質問をすることだけが、この場を回避するやり方だったのです。
JOH04:20わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
敵対関係にあるユダヤとサマリアの間で交わされたもっともホットな論争は、この問題でした。本当の礼拝の場所問題をこの女性は持ち出したのです。それはユダヤとサマリアの教師の間ではホットな話題だった。しかし、自分にとっては今すぐに降りかかってくる話題を避けるためのとっさとはいえ、なかなか機知に富んだ質問です。しかし、主はさらにその上を行く答えをするのです。
JOH04:21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
…
JOH04:23…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。
礼拝の問題、それはすぐさまあなたに降りかかってくる質問なのだよ、主はそういうのです。そしてそれは生きた水、すなわち聖霊が与えられるときでもある。この女が求めている水、いや求めている以上の水が与えられるときでもあるのです。この女性に対して、自分が求めている以上の慰めが与えられるのは、礼拝の時なのだ、そう主はおっしゃるのです。礼拝の時にプライドを持ち続ける必要はない。それは、すべて主のあたえる聖霊によって取りのけられて、この女は礼拝に臨むことが許されるのです。偉大なる主の回り道はこうしてこの女性を礼拝に導いたのです。
そして聖霊が与えられていることが私たちにはっきり分かるのは、礼拝の時です。なぜなら、真の礼拝を献げるとき、聖霊によって私たちは礼拝を献げるからです。
礼拝をするとき、私たちは主イエスを指し示す聖霊のように飛び跳ね、柔らかく幼子のようになってよい。そしてそのような礼拝を私たちは週ごとにあこがれてこの礼拝堂に向かってきます。そういう時がやがて来るであろう、いや、今がその時だ。霊と真理とは、礼拝をする時を、そして場所を作り出すものでもあるのです。
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