信徒が教憲・教規について考える意味


最近、インターネットで「教憲・教規」という語句で検索すると、新しいサイト(ブログ)が上位に浮上しているのに気がつきます。

これは興味深い現象です。かつては強権・凶器などと揶揄され、紙っ切れが各個教会のあり方を規定することが出来ないというのが風潮だったのに、そうでないあり方が、つまり法とは全ての者の困難と利害を調整するものであるという考え方(リーガル・マインド)が現れてきたということです。これが教職でなく信徒から生まれたということも高く評価されうるでしょう。

信徒から生まれたというところの評価をもう少し。

まず現在の日本キリスト教団には教職と信徒の神学的・教会政治的な情報収集に関して、圧倒的な違いが見受けられます。「信徒の神学」という言葉は実は数年の神学教育を受けつつ「信徒」にとどまって教会に奉仕することが可能な文脈で本当の意味を持ちます。韓国の大きな教会では治会長老(信徒職)になるためには神学校に行くことが事実上条件になっています。

そうすると、少ない情報しか入らない立場の人ががんばっているという意味での評価でしょうか。

教職というのはその情報量のゆえにある偏見に凝り固まっている場合があります。◯◯というところから出たからあれは△△だというような、いわゆる色眼鏡です。信徒の場合、一旦そういう偏見から解放される余地がありますから、偏見のないところからみて「教憲・教規」が理解されるという点で、「法」の客観的性格が吟味される機会となります。私の父の信念でもありますが、信徒は霊的な判断において教職より優れていることがあり、そういった目から見て教憲・教規とはなんなのか、ということには教えられることがあるでしょう。

この方は情報収集にも非常に意欲的なようですね。

そのことには驚いています。たとえば、5月末に開催された西東京教区総会の議決事項を教団新報以前に伝聞の形で知っておられます。

こういった情報収集手段があるのはうらやましい限りです。しかしそういうネットワークが霊的なものとして機能していかなければ、結局教師が陥るのと同じ穴に落ちてしまうわけですね。では次のページからは具体的なテーマに入って行きます。


2009/07/14
  • 続く
  • 根源に立ち返ってトップへ
  • 「上田は何者なのか」に戻る
  • 「教会法ってなんだろう」に戻る