規則の制定はどこまで自由か


結局のところ、インターネット上の言論とか、吹いて飛ぶようなものですからね。

教団にも教団新報などの公器があるわけですから、そういうところで教会法体系の解説をして告知に努めるとよいのではないかと思います。例えば、準則の作成には各個教会の裁量権があることは十分知られていないのではないでしょうか。

「準則の通りに作成しなければならない」のか、それともどの程度変更してよいのか、ということですね。

たとえば、別帳会員としての籍をどの程度保持しあるいはそもそも抹消してよいのか、ということは各個教会の裁量にゆだねられてよいはずです。整合性がなくならない範囲での変更は認められます。

このように教憲・教規に注目が集まった理由の一つとして未受洗者陪餐問題があると思いますが、神奈川教区M教会の1999年教会規則変更案については、陪餐者の規定を外すという変更を試み、教団の同意を取り付けるに至りませんでした。教団(議長)が同意しないことによって、神奈川教区もまたこの変更は認められていないという立場を取っています。

「裁量権の逸脱の基準」は次の二通りが考えられます。
・各個教会規則の内部矛盾(86-10.のように余計なものを加えている場合を含む)
・他の規則体系との矛盾

「逸脱」というと「度を超している」というような程度問題だと考えがちですが、実際には明確な矛盾が指摘されなければならないわけですね。

一つの事例として、「役員会というものをもうけない教会」というのが可能かということを考えてみます。前提としては、教規の中ですでに役員会の存在は謳われています。しかしそれは教会としての信仰に合わない、ということで「教規向けに建前上教会役員会は作るが、教会内部では機能させないように、あえて規則から外す」ということをしたとして、これが教団の同意を得られるかという問題です。

明確な矛盾が指摘されるでしょうか。

教会規則準則では、教会総会議員たる現住陪餐会員を確定するのは役員会の任務と定められています。この教会総会議員たる現住陪餐会員を規定する手続きは、教規だけでは完結しません。

かならず各個教会の側で教会総会のメンバーシップを定める何らかの手続きが必要だ、ということですね。それでは、責任役員会でその資格を定める、とした場合にはどうでしょうか。

その場合は法人規則にそのことを明記しなければならなくなります。つまり、ここで矛盾が起きるということです。

そういえば、法人規則に基づく教会規則によれば、教会総会の条項では、なんの定義もなく現住陪餐会員が総会議員の資格を有するとのみ明記されていますね。

これが国家と教会の分離の原則を確立するための知恵なのです。当然これ以外のやり方で◯◯県庁文部課宗教係の認可が下りる法人規則を制定することは可能です。宗教団体独自の規則を持たないところはたくさんあります。しかし、それは後で禍根を生むだけなので、教団の教会についてはそうならないように、現住陪餐会員の定義を教会法に基づく教会規則の中で行う旨の指導をしています。従ってどうしても役員会についての記述が教会規則にも必要になるのです。

86条10.相当事項を教会規則に入れてはいけない理由と同様にして理解しました。
さて、M教会の1999年教会規則変更案は信仰職制委員会に諮問されました。


信仰職制委員会はただ一点、「準則で要求していることを満たさないことによって矛盾が生じる」ということを述べました。政治状況には判断されない答申なので、今後も末永く生き続けると思います。

こういうのは全部教会総会で議決し、その後に信仰職制委員会に回付されるという形でないと答申がもらえないのでしょうか。

いくつかの可能性があります。教団には法務幹事がいないため、多分総務幹事が判断しているのだと思いますが、90年代前半までは実のところ、教会規則を承認する基準にばらつきがあり、拒否された規則案をある教会で見たことがありますが、拒否の理由に若干首をかしげざるを得ないものでした。一例を挙げれば、旧長老派の伝統を持つ教会が「教会の最高議決機関を教会総会及び長老会とする」と謳ったところ、「なぜそういうことをするのか理解できません。」というのが拒否の理由でした。

確かに表現が雑ですね。

こんな理由付けは正直だめです。最高議決機関が二つある場合、両者が管轄する事項が違っていないと齟齬を来します。ところが、ご存じのように教会総会と役員会(長老会)の守備範囲はほぼ一致しており、そのことによって教会総会における役員会の原案提出権を確保するために教会総会のみを最高議決機関にしているのです。そう説明しなければ、「逸脱」の基準が曖昧になります。

基本的に承認・同意は準則通りでやるという風潮があるのでしょうか。

逆になんでも通していた時期もあります。その結果、逸脱、つまり内部矛盾を来している規則が承認された実例も知っています。一般的にいえば、準則通りでなくても、内容がきちんと盛り込まれていればかなり自由に承認を得られます。例えば、準則第三条は「本教会の信仰告白は日本キリスト教団信仰告白とする」となっていますが、ここを鈴木議長による戦争責任に関する声明(俗にいう戦責告白)とするとやったらどうなるのでしょう。教団に確認してみるといいかもしれませんね。議論にもなりうる事柄です。

法が絶対ではなく進化しているのと同様に、運用もまた絶対ではなく進化している、ということですね。

教団のシステムとしては、実務上は総務幹事が、実務を超えた判断については信仰職制委員会の判断を仰ぎつつ行うことになっているのではないかと思います。総務幹事はこの手の質問に答える義務があります。というのも、一旦教会総会を開いたのにそれが教団で同意が取れないという風になるとエネルギーの無駄になるからです。M教会も、教会総会に通す前に一度教団に問い合わせればよかったのではないかと思います。逆に言えば、問い合わせて合法性を確認した上で、後で同意が拒否されたのなら大問題です。あえて事前に問い合わせずにやったのならその意図はつかみかねます。ケンカをふっかけたいのではないでしょうし。

そういう意味では、法の運用には生半可ではない明確な知識と同様に、相互の信頼関係が必要だということですね。

私の見たところ、かのブログの作成者は教憲・教規の理解に対して精力的で、また信仰的にも考えようとしていると思います。
先にも書いた86条第10項問題のように、そのままでは使えない提言も、違う形で実はもっと生きることがあります。それをブログにとどめておいて、「みんなこのブログを見に来て、ここで議論してくれ」、というだけでは進展にはそれほどつながりません。
このHPでは今後も必要に応じて、力量の範囲でブログの内容を吸収しつつページを充実していきたいと思います。ただ、それが教団の偉い先生方の目にとまっているとは思いません。インターネットリテラシーもそうあるとは思えませんし。私としては独り言の延長で気楽にやっているので、それでよければ今後もおつきあいください。もしブログの主張を本当に実現したいのなら、きっと教団でも相談には乗ってくれると思います。そしてその方が生産的かもしれません。

2009/07/15
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