新約諸文書正典化の一過程

――2世紀末の状況――
基本的にまだ神学のイロハもわかっていない若造(神学校入ってすぐの夏だよ、こりゃ)の書いた文章です。翻訳だってこのときは原典見てないもんなあ。レポートだったしね。笑いながら流して読んで下さい。
手直しバージョン。添削をして下さった関川先生に感謝

 新約諸文書正典化の一過程

 James Barrによれば(『聖なる書物』、教文館、1992年刊、原著は1982年)、今日私たちが用いる「正典」概念には三つの意味が込められていて、時にそれらは互いに相矛盾することもあるという(114ページから119ページ)。それらの意味は、まず第一に「聖なる文書のリスト」であり、第二にそれらの諸文書の最終形態の意味であり、第三にそれらの聖文書が全体として権威の源泉となるということである。しかし、私たちはバーの区分は認めつつ、その結論に対しては異を唱える。すなわち、確かにその成立時期においてなおそのリストは変動的でありまた原理的には今日でもなお可動的でありながらも、結論としてなお正典はキリスト教において究極の権威の源泉であるし、今後もあり続けるであろうからである。一言だけバーが念頭に置き忘れている事実を指摘すれば、正典とは礼拝や礼典において公式に唱読される文書であり、まさにその文書が読まれることによってその礼拝に神が臨在することが証しされるのである以上、第一の概念と第三の概念には連続性があるという事実である。バーにとっては聖書が礼拝において用いられているという事柄はあまり念頭にない様に見受けられる。
 さて、古代教会史においては「正典」という語は単に第一の意味でしか用いられない。しかし、その正典リストに何を入れて何を入れないかが大きな問題となっているのは、常に第三の意味が第一の意味の背後に見え隠れするからであり、第三の意味は結局教義そのものに大きな影響を与える以上、彼らがその論争に真剣であったことを意味する。
 エイレーナイオスがおそらくは180年前後に記した『偽って名づけられたグノーシスの暴露と反駁のための五巻の書』(以下『異端論駁』、ラテン語とフランス語とドイツ語の全訳があり、英語の訳が一巻だけ出版されなお継続中)においてマルキオン派及びヴァレンティノス派やエビオン派を攻撃する際に四福音書及び使徒行伝とパウロ書簡などをひとまとまりとして扱うことを弁証したのはそのような意味で筋が通っている。
 また、かれが旧約聖書と新約聖書は「神の言葉と霊によって語られたのであるから完全なもの」(U・28・2)と言い「それが述べることで無意味なものは一つもなく」(W・31・1)、その教えはすべての箇所において「明瞭かつ一義的」(U・27・2)であると言うとき、私たちはエイレーナイオスの主張の陰に今日の聖書主義の萌芽のようなものまで認めないわけには行かない(「古代キリスト教思想現象」、カンペンハウゼン、新教出版、35ページから36ページ)。言い換えれば、エイレーナイオスはこれらの書物を、そしてこれらの書物をのみ正典リストに載せることによって正統的信仰が保てると考えたのである。
 異端の一派が正典リストを改変したがるとき、その動きは大きく分けて二つになる。それは「付け加える」か「減らす」かである。前者で有名なのはフリュギスのモンタノス派(エウセビウスによればエイレーナイオスはこの運動に寛容だったと言われる。それは彼自身が運動の中心地のある小アジアの、スミルナ出身であることと関係があるのかも知れない)とエビオン派(「ヘブル人福音書」)であり、後者の代表としてはマルキオン(彼がパウロ主義者であったという事実は有名であるが、なぜルカ伝を唯一の福音書として採択したかという理由は定かではない)がいる。
 さて、エイレーナイオスによる新約への言及について見る前に、旧約について見ておくと、エイレーナイオスが用いている旧約聖書は70人訳聖書である。とくにイザヤ書の『異端論駁』への引用は多いが、いわゆる「予型論的解釈」が多く、アダム-イエス、エヴァ-マリアなどの予型論はエイレーナイオスの「再統合」理論へとつながっていく。
 では、エイレーナイオスの新約についての言及を見よう。エイレーナイオスは、福音書は四つより多くても少なくてもならないと論ずる(V・11・8)。その理由は彼によれば、福音は「四重の形」を取るものであり、なぜ「四」かと言えば、世界には東西南北の方角があり、4つの方角から吹く風は4つの聖霊(単語が一緒)であるからであり、神の王座を護るケルビムが4つであることと関連がある。
 この議論の背景としては、当時の福音書を巡る各派の思惑がある。先ほど引用したエビオン派はヘブル人福音書とマタイ伝を偏重し(『新約聖書正典の成立』、荒井献編、教団出版局、88年間、第四章「エイレーナイオス」は大貫隆筆、205ページ)、マルキオンはルカだけ、またマルコ伝だけを偏重するのはキリスト仮現論的(『書物としての新約聖書』、田川健三著、98ページ)、ヨハネ伝を重んじるのはグノーシス主義の派のうちいくつか(ヴァレンティノス派含む)であり、マルコ伝はその内容から共観福音書の中では一般に低い価値をおかれ、またヨハネ伝は共観福音書の内容との相違から正典とみなさない動きがあった(アロギ派など。菊地栄三『エイレーナイオスと聖書――正典成立の過程を巡って――』、『基督教学研究』(京大キリスト教学)第三号41ページ)。また、タティアノスによって、それらの四福音書を統合して一つの福音書を編集する「ディアテッサロン」の試みもなされていた。(こういった流れの中でエイレーナイオスが四つの福音書を排他的に主張する根拠は説得力が薄い。『聖なる書物』91ページでバーが指摘するようにマルコ伝なしに構成された三つの福音書でもその三巻は三位一体の三と一致しまた父・子・聖霊に対応するというような主張が可能である。)
 そして、それらの福音書が内容的に同じものを異なる表現で書いていることを論証したあと、ルカ伝を書いたルカがパウロの同行者として使徒行伝も執筆していることを指摘する。そして、パウロの名による書簡がそれと連続性があることを論証する。さらに、公同書簡はペテロ書簡とヨハネ書簡について使徒の手によるものとしてほぼパウロ書簡に準じた扱いをする。(ただし、ヤコブ書とヘブル書については引用する際に「使徒が書いた」というフレーズは入っておらず、またヨハネ第二、ヨハネ第三、ユダ書、ピレモン書については引用がなく、他方、「ヘルマスの牧者」「クレメンスの第一の手紙」「イグナティオスによるローマ人への手紙」は使徒性を認めた扱いをしている。)結局のところ、これらの文書はどれか一つだけを抜き取ったりまた他の内容が異なるものを付け加えれば、全体性が損なわれるということである。なお、エイレーナイオスによる「使徒性」の概念は、「イエスに会った」という意味よりはむしろ「宣教を委託された」ぐらいの意味でしか用いられていない。(この段落は大貫氏の分析を援用している)
 さて、以上でエイレーナイオスが「異端論駁」の中で示している正典論についてリストが構成可能なところまで再現をしたが、このいわゆる「エイレーナイオスの方法」の特徴は、福音書4巻を正典として収めることを弁証した上で、パウロ・ルカというおそらくはギリシャの影響を多分に受けた同一教団に属していると思われる使徒を中心に使徒行伝についても位置をはっきりさせた上でパウロ書簡を押さえている、バランスの良さである。(これは、『異端論駁』の前後、おそらくは直前に書かれた『ムラトリ目録』と比較するとよくわかる。ムラトリ目録はヨハネの権威を高く買って、ヨハネは「使徒アンデレ」に対して「弟子ヨハネ」と、イエスとの親密性を示す語を冠につけている。この目録によればパウロはこのヨハネの示した原理通り教会に送ったことになっている。また、使徒行伝の他の書物との関連が曖昧である。全体にこの目録は厳密な考えに基づいて公式な教会の考えを外部に示すために記されたものというよりは覚え書きの要素の強い感がする。ヨハネを重んじているのはこの目録が書かれたローマが小アジアと地理的に近いことが関係あるのかも知れない)
 エイレーナイオスの方法は、まだ書の順番などに不安定なところがあるものの三世紀の初頭に東方教会ではオリゲネスによってほぼ現在と同等の正典分類がなされ(『新約聖書解題』、山谷省吾、新教出版、1958年初版、364−5ページ)たにも関わらず、西方教会ではなかなかヘブル書の承認がなされなかったほどに影響を持った。(ヘブル書はその後4世紀末に東方教会と接近をしたアフリカ・ヒッポ教会会議(393年)においてようやく正典として扱われるようになった。)その後も正典のリストは二転三転し、安定した形態になるのは5世紀とも7世紀ともいわれている。
 正典成立は異端との戦いを経ずしてなされないとよく言われる。確かにこの場合でもこれらの主張はマルキオン正典やディアテッサロンに対抗するためになされたのである。しかし、そうであるならば、繰り返し主張されるように正典という概念は時代の妥協の産物であると言われねばならないのだろうか。
 そうは考えない。一方で異端という外的な刺激が正典化の動きを促進させたのであるが、他方で内的な動機(すなわち礼拝)が存在する。それは権威ある「主の言葉」を何とかして保存する必要があったからであり、同時にその保存が「文書」という形態をとることが十分に可能であるという教会的判断がそこにあったからである。もちろん、だからといって外的な刺激(何らかの文書だけを強調する)の様態が全く正典の様態(どの文書もバランスよく)に影響を与えていないと主張するならばそれは歴史観の過誤であるが、内的要因なくして正典化のプロセスが可能だという主張もまた過誤であろう。ここでも私たちはエイレーナイオスが見せたバランス感覚を必要とする。
(私たちが考える「正典」概念についてよく言い表した文章を付録として付け加えておく。この付録を数えないでこの論考は3997字である)

 付録
 『新約正典のプロセス』、蛭沼寿雄、山本書店、72年
 カノンなる概念は、聖書の意味のカノンなる語より遙かに古いことは事実であろう。カノンなる語は全般的には用いられていなかったが、「カノンに入れる」(κανονιδω)「カノンより出す」(αποκανονιδω)「カノンに属する」(κανονικοs)「カノンに属せざる」(ακανονιστοs)などの派生語が作られていることから見れば、かなり広く用いられていたことと思われる。
 では聖書はどういう意味でカノンと呼ばれたのであるか。
 すなわち、カノンには二つの意味がある。「表、目録」という意味と、「基準、規範」という意味とである。
 ここに「ある人がカノニコス」とはどういう意味であるか。それは、一つには彼が聖者のリスト(カノン)に書き加えられていることを意味する。そして第二には(これは後の用法だろうが)、彼がある規律(カノン)に従って生活すべき人の一人であると言うことを意味する。カノンが聖書を示すのに用いられたのは、リストの意味からであったことは疑いようがないようである。エウセビオス以前の時代においては、学者や聖職者は聖典の中に含まれる書のリストを作ることが習慣であったようである。たとえば、170年頃と推定されるムラトリ断片には新約諸書のリストがあり、また、二世紀後半サルディスのビショップ、メリトーンの書いた旧約諸書のリストがある。すなわち、新約諸書も、このようなリストの中に加えられるとき、カノニコスと呼ばれた。
 そして、はじめはこのカノンが一教会の礼拝において読まれるべき聖書諸書のリストであるが、これが宗教会議などの権威によって裁定される場合には、全教会のカノンとなる。このようにして、教会の権威によってカノンとなったものは、それまで用いられていた教会生活の基準という意味のカノンと意味の混合が行われた。とくに、このギリシャ語が、ラテン教父、すなわち、360年頃のアフリカ正典目録、プリスキリアーヌス、フィラステル、ルーフィヌス、アウグスティヌスなどに用いられるようになると、聖書それ自体がカノンと呼ばれるにいたり、「カノニコス」の訳語としてregularisが常に用いられると、カノンのリストというもとの意がなくなり、ルールの意が表面に出てきて、聖書は他のすべてのものの基準であり、なかんづく、信仰と行動とを決定する基準であるという意味でカノンと呼ばれるようになった。聖書は最高の権威、信仰については最後の権威であるという意味のカノンとなった。かくして、カノンはそれまでになかったような閉鎖性、完全性、従って絶対性を帯びるようになった。
 
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