「叙任権闘争とは私たちにとって何であるのか」
(叙任権闘争を通じて見るローマ・カトリック教会と福音主義教会の比較の緒論)
98/01/13(火) 20:46
叙任権闘争を血なまぐさいがしかし単なる世界史の一幕として叙述するのではなく、そこからいくらかでも神学的な考察をなすためには、しかし世界史的考察は不可欠である。この場合に世界史的考察という言葉によって示唆しようとしているのは、過去――そのときには「彼らの過去」ではなく「私たちの過去」として――を真摯に見つめることによって、未来を考えるという作業であり、しかもそのときの「未来」とは「単なる時間的延長」ではなく「断絶を伴った連続」でなければならない、ちょうど私たちにとって「古い自分」に取って代わって「新しい自分」がすでに生まれているにもかかわらずなお私たちがこの地上において自らの罪を引き受ける勇気を携えて生きているのと同じである。
そのような「私たちの過去」の重要な、しかし見逃されやすい一断面が今回取り上げる「叙任権闘争」であり、従ってここで扱われるテーマは一方で徹底的に批判の対象でありながら他方で優れて「私たちの事柄」である。このような事情を明らかにするために、この論考ではまず世界史的叙述(その背景と事実経過)を確認したあと(紙幅の都合で最小限にとどめている)、その神学的考察を少しばかり試み、ついでローマ・カトリック教会における教会観の一例としてトマス・アクィナスの教会観(?)を取り上げ、最後に福音主義教会における教会観を取り上げる。
その世界史的記述――背景と事実経過――
フランク王国の成立以後、クローヴィスが王として自分の王国内の司教区の司教選出に関与しだして以来、王と司教選出との関係は潜在的であれ顕在的であれ、問題にはなっていた。
6世紀においては聖職者と会衆によって選出された司教は王の同意が必要であるという規定を公会議は採択した(A.フリシュ「叙任権闘争」、野口洋二訳、創文社歴史叢書6ページ)。しかし、このときには王の同意は選出のあとであって逆になってはならないことが明記されている。もっともこのときにすでに例外はあったのかもしれない。
ところが、カロリング王朝の時代になってその言葉の本来的意味において「叙任権闘争」は始まった。それはすなわち司教の任命者は王となり、聖職者と会衆はそれを歓呼してその後に叙階が行われるようになった(上掲書、7ページ)。この際に、司教職を象徴する「杖と指輪」を司教は王から「教会を受けよ」という言葉とともに受け取っていた。
この際の王の言い分はこうである。教会の土地は領主である王から「恩貸地」として譲られ、従って司教は王のある種の家臣であり、叙任とは司教の忠誠宣誓の場である。このことは教会に対する世俗からの軍事行動や強奪から守るのは王であるという主張に裏付けられていた。そしてこれに付随して宗教的権威もまた王から授けられるものだと見なされていた。王はしばしば教会の力を押さえるために司教の任命を遅らせることもあった。こういったことはしばしば「先例」として王権に有利なものが事情をさらに悪化させるような形で取り上げられた。
これらのことが教会にもたらした悪影響は大きく分けて、「シモニア」と「ニコライスム」である(上掲書、14ページ)。シモニアとは司祭叙品の謂であり、これは王に対して司教が叙階の前後に払わなければいけない贈り物のために、教会の任務を司教が遂行するときにお金を取ったり、さらにはあまつさえ司教座や修道院の売買が行われていたことを指す。ニコライスムとはさらに司祭の道徳的退廃の謂で、特に聖職者独身制度を無視して妻はおろか妾さえ構えることを指す。これはシモニアからくる道徳的感覚の麻痺であろう。国王による叙任と種々の道徳的退廃とは、従って密接に関連している。
これに対する改革運動は一方で道徳的徳目を回復するということに主眼がおかれ(クリュニイ修道院など。上掲書、29ページ)、他方で世俗との結びつきを完全にたつことなく改革を試みる運動(ロレーヌ公国における運動)という二つの路線があった。そしてその後者が後のいわゆる「グレゴリウス主義」につながる筋道である。
いわゆる「グレゴリウス主義」は改革運動において時代を画する一大転機であるが、それ以前に一人改革者を挙げるとすれば、枢機卿フンベルトゥスによる論考が有名であろう(上掲書34ページ以下)。ここで彼は教権と俗権との緊密な関係(『司祭制は心、王国は身体』)を論じている。
「グレゴリウス主義」とは教皇グレゴリウス7世によって押し進められた、教皇座の権威の回復を起点とした教会改革運動である。その背景には道徳的諸改革の失敗があったともいわれているが、ともかく1075年、グレゴリウス7世は「教会または修道院のあらゆる権限を、いかなる俗人の手からも受けてはならない」と命じた(上掲書、56ページ)。これに対する世俗領主の反発のうち、もっとも大きな問題となっていたのは国王による叙任がきわめて一般的であったドイツの場合である。有名なカノッサの屈辱はハインリッヒ4世にとっての屈辱ではあってもそのことによってそれまでの改革を反古にする赦免を彼に与えたことはグレゴリウス7世の改革を中途半端にしてしまった。その後に国内で起こった諸侯のクーデターを鎮圧したハインリッヒ4世は、反乱諸侯の推す新しい王ではなく自分こそが正当な国王であることをグレゴリウス7世に告げた。しかしグレゴリウス7世がハインリッヒ4世を廃位し破門したことから、ハインリッヒ4世は対立教皇を擁立した。こうして教権と王権の争いは苛烈になった。
それに対するシャルトルの司教であったイヴォは、いわば「中間派」である。「国王叙任は司教任命に際しいかなる秘蹟的力も持ってい」ないが「俗権の譲渡を禁じてはい」ない(上掲書、154ページ)。最終的に、このイヴォ理論に従って、まず最初にイギリスとフランスで、ついでドイツできわめて長い争いの末にウォルムスの協約によって終わる(最も重要なのは、教会が国王に対してその所領を返還する代わりに叙任権の解放を求める1110年のパスカリス2世とハインリッヒ5世の対話であろう。しかしこれは最終的には不発に終わる。上掲書、199ページ以下)。このときにもっとも難しかったのは、グレゴリウス7世の時に出ていた教令が「先例」となって、イヴォ路線を徹底することが難しかったことはここで付け加えておいてもよいだろう。
領主が教会から不当に簒奪していた土地は次第に教会に返還されるようになり、また同時に教会内の道徳的諸改革も一定程度の成果を収めるようになる。
その神学的考察――そしてローマ・カトリックの「教会観」――
イヴォの理論は、私たちの使う言葉で言うと via media の発想である(レポーター自身はこの考えを熊野義孝「基督教概論」から学んだ)。 via media とは巷間誤解されているような「足して二で割る」といった安直な発想ではない。緊張関係にある二者のいずれにも真理契機を認め、その融合をはかる考え方であり、そのいずれかに真理契機がない場合にはこの作業は行われない。ここでは、司祭が持っている権能は使徒伝承によって伝えられ(その象徴が杖と指輪である)、従って教皇権において司祭は任じられる必要がある一方で、世俗の任務を負う王が封建的領主として司祭との関係を持っていることを確認することになる(その象徴が笏である)。
さて、司祭が持っている権能とは何であろうか。それはローマ・カトリックにおいては7つあると考えられているサクラメントを執行する権能である。そして、それはいったい何であろうか。それはすなわち「救い」に関する権能である。
この線で考えると、たとえば、トマス・アクィナスなどは「神学大全」第三部「聖体について」問73で「聖体拝領による以外に救いがない」ことをまず示し、ついで問82において「聖体拝領を行う『力』を持っているのは聖職者のみである」ことを示す(そこでいう「力」は司祭による叙階の秘跡によって実効性を持ち、そうでない信徒は必要に応じて洗礼を施すことが出来ても聖体拝領をおこうなうことは出来ないとされており、事実上聖体拝領の司祭による独占性と使徒的継承が言い表されている。一般にこのようなローマ・カトリックの主張に対して私たちは「フェティシズムは『神の言葉の自由』を損なうおそれがある」と反論することになっている。)。トマスの線に従えば「救いは司祭によるしかない」、ということ、そして「救いはローマ教会によるしかない」ということを言っていることになる(もっとも、『神学大全』においてトマスは教皇に対する言及をストイックに控えているらしい。)(ローマ・カトリック教会の用意に入手できる資料として第二バチカン公会議の資料があるが、ここにおいてもたとえばエキュメニズムへの取り組みとして「別れた兄弟」への言及の中で洗礼の有効性は認めつつ、聖体拝領は聖餐によっては代替できないとする従来の主張を繰り返している。)。
このことが示唆することは、現今私たちが考えている課題とは、「教会は救いを管理する権能を持ち」「国家は政治を管理する機能を持つ」ときに「異なるものを管理するそれぞれの関係はいかなるものであるべきか」ということが問題となっている、ということである。
ここで、私たちは次の章を使って「福音主義教会において教会と国家との関係はいかにあるべきか」について考えなければならない。
教会と国家――福音主義教会において――
基本的なこととして、使徒継承においてローマ・カトリック教会が言うような意味で教会の完全性を示すことが出来ない私たちが、マタイ伝16章の「鍵の権能」を「キリスト告白」に見いだしていること、ルターが「私の福音はこの世と何の関係もない」と言って二王国説の福音観を持っていたこと、カルヴァンが神権政治を執っていたこと、ピューリタンは「国家と教会の分離」の国であるアメリカに自分たちの理想を見いだしたこと、などについてここで言及する紙幅はない。
もっとも問題にすべきことは、終末観であろう。実際、今回参考に取り扱った「叙任権闘争」においては教会と国家との関係に終末論を絡めて論ずる私たちの姿勢(大木氏「キリスト教倫理」など)などはみじんも見あたらない。たとえば、このことをこの論考においても多少ふれている「先例主義」にふれて考えてみよう。ローマ・カトリック教会が「先例」を大事にするというのは「過去」を問題にしているということである。使徒信条で「聖徒の交わり」というのが彼らにとって「いにしえの聖徒」を念頭に置いているのその現れの一つである。もちろん、そのことは、本来は「過去を問題にしながら未来に関心を持つ」ということによっていわば健全な形での「先例主義」として現れる。使徒継承だって私たちの言葉を使えば「絶えず(いにしえの)御言葉に立ち帰ることで新しくされる」と言うことに他ならない。「新しくされる」ことのあり得ない「立ち帰り」などは意味がない。
もちろん、私たちは一方的にローマ・カトリック教会を批判して終わらせることは出来ない。私たちも同様に「現在(「聖徒の交わり」は福音主義教会においては通常現在の教会員の交わりを念頭に置くはずである)を問題にしながら未来に関心を持つ」ことを要求されているのである。
(本論考においてはGerd Tellenbachの研究(Libertas:Kirche und Weltordnung im Zeitalter des Investiturstirestes,Leipzig)を取り上げることが出来なかった。)
(この論考は、()内をのぞいて3863字である。)
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