桜とスイセン(日本とドイツの春の花)について(2005)
Zwischen Kirschbaum und Osterglocke(2005)


Zwischen YMCA Kioto-Uni und Wohngemeinscheft gibt es einen Kirschbaum.
Die Lage des Kirschenbaumes zwischen Japan und Dtld ist unterschiedlich. Keiner in Dtld denkt, dass Harakiri unter dem Kirschenbaum gemacht wird. Dass Kirschenblumen bluehen gleichzeitig auf und ab, ist ein Spiegel japanisches Gefuehles. Shuji TERAYAMA, ein Autor, schrieb, "man kann Tode unter Kirschenbaum finden!", unter dessen allerdings Japaner am Anfang des Aprils Party (OHANAMI - Kirschschauungparty) machen. Ziemlich ironisch.
In Europa ist die Blume immer ein Symbol des Lebens. Zwar "Wenn das Weizenkorn nicht in die Erde faellt und erstirbt, bleibt es allein; wenn es aber erstirbt, bringt es viel Frucht", aber, ich wuerde sagen, Todes- und Lebensanschauung in Europa hat keine Beziehung mit der Blume. (Spaeter will ich die Seite aufhaengen darueber weiter.)


Kirschbaum in Kioto(1). Am Neckar(2). Osterglocke am Oek, HD

(1)京大YMCAの桜

(2)ハイデルベルク、ネッカ川ほとりの桜
(3)スイセン、エキュメニカルインスティチュート


日本の桜、ドイツのイースター花

 京都大学YMCA会館(いわば霊の糧)と寮(いわば肉の糧)とを結ぶ位置にある一本の桜。(写真1)
 桜そのものはこちらドイツにもあります(写真2)が、位置づけがまるで違います。第一に木の下で飲みません。
 第二に、「桜の木の下に死体が」とは寺山修司の言葉ですが、切腹とか、一時に咲いてすぐに散るところなど日本人の死生観と桜が密接に結びついていることはこちらでは理解出来ないと思います。

 こちらでは花は常に命の象徴です。それに対して、聖書でいえばたとえばヨハネ福音書12章にあるような「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」といったキリスト教本流の死生観は花と結びついて理解されてはいません。この点では日本の方が一歩進んでいるとも言えるかも知れません(キリスト教と仏教の死生観の違いについてはいずれアップします)。まあ私も昨年思い出をかねて桜の木の下を歩いた時にはそんなことまで考えませんでしたが。
 (写真3はイースターの花・スイセン。イースターの鐘とよばれる)





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