洗足の木曜日(2005)
Gruendonnerstag(2005)


In Passionzeit 2005 in Heiliggeistkirche sind Naegel mit Faden aus oben ausgahaengen. Nicht gestreut, nicht beschlagt, denn wenn wir keine himmelische Kraft bemerken, sind wir nicht bewusst, dass wir suender sind.

Ich habe viele Muehe beim Fotografieren, weil Naegel klar auf der Haelfte der Fotos erscheinen, Fadel auf letzter Haelfte der Fotos, aber nicht die beide gleichzeitig deutlich.

Aus einem Foto kann mann den Himmel kennen, aus anderem die Erde. Nicht gleichzeitig.

ハイデルベルク、聖霊教会

この受難節に私の行っている教会には一つのオブジェが飾られていました。礼拝堂前方の聖餐卓に降ってくるかのように釘が飾られているのです。釘は十字架のしるし、そして十字架は私たちの罪のしるし。
しかしそれならば、なぜ釘は「降ってくる」のでしょうか。「打ち付けられる」のでも「まき散らされる」のでもいいはずです。
そう思いながら聖餐卓に近づいてこの釘を下から見上げたとき、私の目には照明が飛び込んできました。そうだ、釘は見上げなければならない!上を向いたときに初めて釘を認識出来るというのはとても意味深です。私たちは地上のことに汲々(きゅうきゅう)としているとき、本当に自分の弱さを知っていると言えるでしょうか。天を仰いだときに自らの小ささに気づくのではないでしょうか。





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