「ドイツ報告」(2005、福音主義教会連合投稿)
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この夏日本からの友人が泊まりに来て、朝の祈祷会の時に、実に15ヶ月ぶりに声に出して共に日本語で祈りました。今更のように教会というのは声に出して祈る共同体であることを思い出し、同時に日本の教会のことを重ねて思い起こしました。
私が住むここエキュメニカル・インスティチュートは30人弱の国籍も教派(一部他宗教含む)も様々な共同体です。ヨーロッパ特有の個人主義の中にも暖かさがあふれています。特に寮監でもあるフェルナンド・エンス氏には大変にお世話になりました。エキュメニカル運動に詳しい氏を通じて、合同教会にいる私たちがエキュメニカル運動には明るくないという事実(私だけかも知れませんが)を思い知らされ、こういった運動を通じて教会が健全になっていく可能性を知りました。
通っている教会はハイデルベルク信仰問答で名高い聖霊教会です。ある時、年間五十万人の日本人観光客向けに伝道を兼ねたトラクトがここにあってもいいのではないかと思い立ちました。既存のドイツ語や英語のパンフレットがキリスト教を理解したヨーロッパの観光客向けで、日本人にはなじみにくいという判断から、キリスト教に触れたことのない人を念頭において新たに文章を書き起こしてみました。先日それを牧師に見せたところ、いくつかの質問を受けました。その内の一つは次のようなものでした。私が書いた文章のうちで、本来あまり重要ではない次のくだりをめぐってです。「外見上は常に現状維持がなされてきた教会も、こうして多くの変遷をくぐり抜けて現在に至ります」。ここを指して、「日本では教会は建て替えをするのか」と聞くのです。改築の方が安くついても補修で外観を出来るだけ保存するというのがドイツの習慣で、そこからすると日本で町の外観の変化に合わせるかのように教会を建て替えるのは理解できないようなのです。そこで私は、日本ではキリスト教は新興勢力で、プロテスタントの場合たった150年しか伝統がなく、教会が街作りの最初にあるという風にはなかなかならないのだと説明しながら、「そうか、日本の教会の伝統はとても短いのだな」と改めて気がつきました。
ドイツの神学界は今曲がり角にいます。モルトマンやユンゲルといった巨人が現役世代にはいなくなりました。神学的関心を一手に集める巨匠がいなくなったということは、言い方を変えれば神学的基盤が個別化しかけていることを意味します。神学を固有名詞で語るのではなく、学派で語る時代が来たと評する人もいます。
神学・キリスト教書店の販売面積ではドイツに勝る日本でも、実際には同じように神学の「たこつぼ現象」(教会をまとめ上げる神学の不在)が起きているのではないでしょうか。教会堂が歴史を表すように、神学がいかに伝統と結びつくかというのはドイツと日本の共通課題です。
日本の教会は、歴史形成に無自覚な人たちとの戦いを四〇年近く続ける一方で、伝道に目覚める教会形成の途上でうめきの声を上げています。繰り返し建て直さざるを得ない日本の教会建築事情を思い出しながら、「若い」日本の教会がなし得ることは、最初から数を絞って成功しそうなものだけやる慎重主義よりも、むしろ多くのことに手を出して失敗を繰り返しながら本物を見つけ出していくというやり方だと思います。
終末に向けて、私たちの教会は教会になるための歩みを続けています。その過程で、教会同士の交流から学ぶこともまた多くあるでしょう。しかし、歴史形成に耐えうる教会であるためには、伝道への志をなお太く持ち続ける必要があります。伝道する教会へのあこがれはここドイツにいてもっと強くなりました。日本語で織りなす、声にならない祈りがまさにここにあります。
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