ウェーバーにおける無神論の問題について
教義学特殊研究レポート(03年2月)
問題の所在
マックス・ウェーバーは『職業としての科学 (1919)』の中で、文化的諸価値の雌雄を判断することが不可能な理由として、それが「神々の争い」になる(神々の争い -- 価値判断)ということを挙げている。つまり、ある文化の価値は一つの神とつながっており、それらのいずれかに軍配を揚げるわけには行かないとウェーバーはいうのである。
その理由の一つは、既に「真なるもの」「善なるもの」「美なるもの」のギリシャ哲学に見られるような素朴な一致はニーチェ、ボードレール以来崩壊しており、さらにさかのぼればイザヤ書53章や詩編21編(K.レーヴィットは引用の際(108頁)後者を削除しているが、これは70人訳の表記で考えれば現在の詩篇22編を指しており、削除する必要はない)に見られるように元来宗教の中でも指摘されているとおりだということもあるが、それ以上に彼が自ら取った学問的立場からすれば、この神々の争いのいずれかの神に肩入れすることはさらに難しくなるだろう。
それは、ウェーバーの「価値中立」あるいは「無前提」という方法である。つまり、(宗教)社会(哲)学的に宗教団体を分析するときに、ある特定の信仰の立場から分析をするのではなくて、それらの立場から自由になって分析をしようとする立場である。これが「価値自由」の概念の宗教社会学的転用である。これをレーヴィットは(ニーチェとともに)「学問的無神論」と呼んだ。
しかし、いわゆる「学問的無神論」とは一体どのようなものであろうか。特にこの点について、『職業としての科学』および「世界宗教の経済倫理 中間考察」からの分析を試みたい。(「科学」は「学問」と訳す方が一般性が高くなるが、ここでは利用した翻訳の表題に合わせ、こう表記することにする)
さらにここでは、レーヴィットの分析がまとまった形で提供されているので、この分析をもウェーバー理解の助けとしたい。
『職業としての科学』における無神論の問題
ウェーバーは「学問の前提 -- できないこと、してはならないこと」の中で、教師がしてはならないこととして「政策論議」(「実践的政策的な所信の表明」)とともに、宗教的信条を科学的方法を超えて取り扱うことを挙げる。
「前提から自由な」科学は、宗教上の束縛を一切拒否す るという意味で、「奇跡」や「啓示」については、事実なにも知りません。もし知りうるとすれば、科学はその「前提」に対して不忠実となります。
この事は次節の「神々の争い -- 価値判断」においてさらに詳述される。宗教的信条が科学的判断と異なることが指摘され、様々な教えは世俗的に見ると(宗教的「日常」。要するに宗教上の祝祭日ではない、世俗的な判断が入る考え方ということ)信仰者が選択をするかもしれない一つの「行動倫理」に過ぎないとされる。
この「科学的」であることが「世俗的」であることと同じであるとされ、この「世俗」から「宗教」を見ることが「科学的」であるとされている点に、ウェーバーの方法論が明確に現れている。これは他の言い方をすれば、理性は信仰と区別することが出来る、という立場である。
レーヴィットの分析
「学問による世界の魔術剥奪」の中でレーヴィットはこの方法を「学問的無神論」の問題性として表現している。ここで既にレーヴィットはニーチェの言葉を借りてウェーバーが無神論の立場に立っていることを指摘している。
特定の先入見及び価値判断の全体、すなわち、「今日」は「宗教上の平日」であり、学問は――ニーチェとともに言えば――「学問的無神論」という人類史的事実に相反するようなそれらの全体を、方法的に破壊しようとしたものである。(101)
レーヴィットがここでしている理解は、価値自由を志向する思考をする際、価値を対象化することが理性独自の力によって可能であり、この点で価値と理性とは切り離すことは出来ないが区別することが出来るしまたそのことが重要であるという理解である。
学問的判断の価値自由性への要求は、何ら純粋学問性への後退を意味しているわけではなくて、まさに学問的な判断における学問外的な基準を考慮に入れようとするものなのである。…本来、学問的な判断は価値評価的な判断からそもそも切り離すべきではなく、ただ区別すべきであるにすぎないのである。(98−99)
もちろんこのような学問的判断のための理性が、単独で存在できるかという問いが考えられねばならない。しかし、もう一つの重要な問題がある。それは、単に方法論のレベルで「切り離すべきではなくただ区別すべき」であり、また実際にそうしたのだという理解は、ウェーバーそのものから本当に導出可能かという問題である。例えば、『職業としての科学』の中でウェーバーが述べていることには
わたしたちの時代の宿命は合理化と知性化、そしてなにより「世界の脱魔術化」によって特徴づけられます。まさしく、最終的かつ最も崇高な価値は、公衆生活からは後退しており、秘教的な生の超越的領域か、あるいは直接的かつ個人的な人間関係における友愛のいずれかへと移っています。(「日々の要求にしたがえ」)
この場合、ウェーバーが言っているのは世界(世俗・公衆生活)と宗教(崇高な価値を有するもの)とは区別されるのみならず切り離されているという事実の指摘である。レーヴィットが言うように方法論的には「切り離されるべきではなく区別されるのみ」であったとしても、さらにウェーバーは結論においても「切り離される」と言っていることになる。
「中間考察」における言及について
この事はさらに「中間考察」における言及を確認したときにはっきりする。
現世拒否の類型として「禁欲と神秘論の類型学」の節を記した後、その諸方向として「経済的・政治的・審美的・性愛的・知的諸領域」におけるその現象を確認する。
この第五点として「宗教意識と思考による認識の問題」(知的領域に相当)を挙げる。ウェーバーによれば、呪術的宗教の段階では両者の素朴な統一が見られたし純粋に形而上学的な思索の場合にもかなりの程度までの相互承認が可能であるしまた禁欲的プロテスタンティズムもまたそうである。しかし、
合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的に成し遂げてしまうと、現世は神が秩序を与えた、したがって、なんらかの倫理的な意味を帯びる方向付けをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向付けを与えられているような世界の味方は、原理的に、およそ現世内における自称の「意味」を問うというようなものの見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するに連れて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域に追い込まれていき、こうして今や、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。(147−148)
とウェーバーが述べたとき、これは方法論的な無神論(すなわち学問的無神論)ということだけではなく、無神論化する社会を描写していることになる。この点で、『科学としての職業』が「おのれの究極の立場を明らかにする勇気」(日々の要求にしたがえ)をただ標榜しているだけでは不十分である。
『学問としての科学』にせよ、「中間考察」にせよ、共通しているのは、「世界の意味」について問えない社会が陥る悲哀について、ウェーバーがよく自覚しているということである。レーヴィットはウェーバーの方法論を修正的に理解しているため、ここまでの見解に達することが出来ない。
(しかし、興味深いことに、レーヴィットはウェーバーの本質を「無神論」と言い切っている。つまり、結論は正しい。ただし、そこに至るまでの論述は、この「学問による世界の魔術剥奪」の議論を見る限りでは不十分であると言える。レーヴィットはウェーバーの論文以外の言葉(107)を用いて、つまり著者の個人史的な言葉を引用することでこの結論に到達しているのである。)
ウェーバーの「前提」とは何か
世界の意味について問えない経験的理性をウェーバーは「精神なき専門人」と呼んだ。しかし、この結論はウェーバーの前提からすればむしろ必然的であって、この「価値自由な学問」という前提をそもそも疑う必要がある。しかも、たんに「価値自由な態度が可能かどうか」と疑うだけではなく、「価値自由という態度はすでにある態度を決定している」という可能性を疑う必要があるのではないか。
ちょうどそれは、観測によって成り立つ考えられていた古典物理学が、光速で移動する物体の観測を扱うときに「公理」を導入せざるを得なくなった経緯と似ている。無前提的に成り立つ物理学はいつも近似的であり、宇宙の膨張などを扱うときには「公理」、すなわち前提を導入しなければならない。ウェーバーの方法は「価値自由」なのだから無前提でよいのだと言うのではなく、「価値自由」「無前提」というのが重要な「前提」として暗黙裡に採用されているということを明らかにすることが必要である。
この点で、ウェーバーが「世俗空間」といっている空間の性質を検証することが重要である。ウェーバーはこの「世俗空間」はキリスト教の色彩を受けてはいるが特にその「(宗教的)平日」において価値自由の傾向を示しているという点で、特定の宗教によって支配されているのではない世俗空間は措定可能だと考えている。
しかし、グラーフによれば立場を一つ決めるというあり方が既に唯一神論的な行き方であり、この点でもし複数の立場を取ることがあり得たとしてもその発想そのものに唯一神論的な態度が存在することが指摘できるという(『トレルチ研究』下221より)。この点で、「世俗空間の宗教的平日」における価値判断の方法についても、何らかの宗教的要素の影響すなわちキリスト教の影響を認めないわけには行かない。
ウェーバーのいわなかったキリスト教について
この場合、キリスト教の要素として、
1.一神教であること
以外にも
2.教義学を発展させていること
3.伝道をすること
を挙げることが出来よう。
第二の事柄が重要視される理由は、ウェーバーがおよそ宗教は「非合理なるがゆえにわれ信ず」という態度を明確にせざるを得なくなるといっているからである。その中で、キリスト教自身は「首尾一貫性」を確保するために、教義学の展開をもっとも押し進めた宗教の一つである。(この「首尾一貫性」はウェーバーが理念型を導入するときの「首尾一貫性」とは異なる。後者は(宗教)社会(哲)学の立場から観察した、価値自由的なモデルであるが、前者は崇高なるものに対して価値をおくモデルだからである。「中間考察」の叙述の特徴は、個別の宗教を考察するより前にまず理念型を措定していることである。それゆえに価値自由の問題と首尾一貫性の問題が混同されている)
第三の事柄に関しては、「伝道」という言葉を用いてウェーバーが以下のような重大な発言をしていることと関係がある。
救いの宗教それ自身の立場から見ても、もちろん、神秘的体験のつかみようのない伝達不可能性の問題を放置していると、たちまちに、自分自身も同じように一貫性を欠いた侵害の責を負わねばならなくなるであろう。というのは、論理的に一貫すれば、神秘的体験に関しては、それを出来事として導入する手段はあるとしても、適切に伝達し、また論証する手段などはあり得ないはずだからである。そうしたことを行おうと世界に働きかける試みは、伝道という性格をとるやいなや、すべて宗教自身を危険に陥れることにならざるを得ないであろう。(151−152)
つまり、ウェーバーは宗教が何を伝道する事柄として考えているかが問題であり、それが内的神秘的な体験であるのなら、それは首尾一貫性がないはずであり、伝道といった仕方によるしかないであろうといっているのである。
ウェーバーのここでの前提は、内的神秘的な体験と高度に教義学的に発展した宗教とは異なる段階にある、という考え方である。これは宗教と芸術の関係について述べた「中間考察」の中の
救いの宗教はその宗教意識が昇華されてくると、必ず意味のみに目を向けて、救済に関わる事物や行為の形式は意に介しなくなってくる。つまり、形式は無価値であり、ただ偶然的・被造物的で、意味から目をそらさせてしまうものにすぎなくなる。(132)
といった記述からも明らかである。ここでいう「事物や行為の形式」は「意味」または「価値」から遠いという意味では「内的神秘的な体験」と同じ位置にある。
しかし教義学というものは、どんなに洗練され、首尾一貫性を内的には持たせたとしても、やはりそれが人間的理性に即座に適応するという意味での「合理性」を持つことはあり得ない。したがって教義学を持つ宗教もまた伝道をするのである。そしてこの「伝道する宗教」は行動倫理である以上に価値判断をするための主体を作る。逆にいえば、この「伝道するキリスト教」は教義学によって首尾一貫性を持ちつつ、救済財を世俗化した形で用いるのではなく、内的な神秘性との結びつきを持っている必要があることになる。これがウェーバー自身が陥っている「精神なき専門人」の陥穽から抜けるための方策である。
ウェーバーの理論に従いつつキリスト教の自己理解を確保して言えば以上のようになるが、この場合に、どうしても問題になるのが、弁証学の位置づけである。つまり、ウェーバーはキリスト教に社会学的に言えば行動倫理の規範を与えたが、価値判断の規範は与えなかった。そしてこのキリスト教が自己理解のために教義学を自ら構築した、ということになる。しかしこの場合、キリスト教の側からキリスト教以外の世界(世俗)へと発言する手段が確保されていない。あくまで宗教は団体また個人の内部のこととなる。つまり、弁証学の領域が存在していないことになる。
弁証学の位置づけを失っていることと伝道の位置づけが正当にはなされていないこととの間に何らかの連続性があるかどうかについてはまた別の課題として考える必要があろう。
参考文献
『職業としての科学 』、マックス ウェーバー、岡部拓也 訳
(引用はhttp://jaguar.eng.shizuoka.ac.jp/etc/WB-ja.htmlによった。ページ数が示せないため、引用した部分の見出しを()で付した)
「世界宗教の経済倫理 中間考察」、『宗教社会学論選』(みすず書房)所収、マックス・ウェーバー、大塚久雄・生松敬三訳
「学問による世界の魔術剥奪」、『学問とわれわれの時代の運命』(未来社)所収、K.レーヴィット、上村忠男・山之内靖訳
『トレルチ研究』(教文館)、近藤勝彦
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