シュライアーマッハーのキリスト論を巡る「歴史性」についての研究史的一考察
上田 彰
序 シュライアーマッハーの歴史理解について
キリスト教がいかなる「歴史性」を有するかについては、様々な議論がされている。
ここでは、F.E.D.Schleiermacher(以下シュライアーマッハー)がいかなる形で「歴史」について考えていたかを、特に、「キリスト論」を巡る項目に集中して考察したい。また、いくつかの文献との対話も試みてみたいと思う。
まず始めに、このテーマに関して考えられる問題点を掲げてみよう。
第一に、シュライアーマッハーは、イエス・キリストがどのような意味で「歴史的存在」であると考えていたのだろうか。その際、「歴史性」とはどのような意味で用いられていることになるのだろうか。
第二に、シュライアーマッハーは、キリスト教会の信仰者の持つ歴史性に対して、上記と同じ意味での「歴史性」を付与していたのだろうか。両者が持つ「歴史性」とその意義にはどのような関係があるのだろうか。
前者について、シュライアーマッハーの著作を読み進めていく時に、以下のような誤解が予想される。すなわち、「信仰を『絶対依存感情』で考えるシュライアーマッハーにおいて、信仰の中でキリストは独一的な位置づけを持たない。その場合イエス・キリストの歴史性はどう位置づけられるのか、信仰的な意義づけが希薄になるのではないか」というものである。この理解は、シュライアーマッハー『宗教論』におけるキリストの位置づけからは、導出できなくもない。*1しかし彼自身がその理解を終生貫いたとは言えないと考えられる。
本論考では、Der christliche Glaube nach den Grundsaetzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt. Zweite Auflage 1830/31(以下『信仰論』。Erst Auflage 1821/22を掲げる時には『信仰論』第一版と表記する)におけるキリスト論の扱いに注目し、晩年における理解を見てみたい。
また後者の「信仰者の歴史性」の問題であるが、この問題を考えるには、「歴史性」という言葉が持つ意味を確認することが必要となる。興味深いことに、この問題に関連して、いくつかのシュライアーマッハー研究から読みとれる見解の間には、若干の違いが見受けられる。このことについては第二章で扱う。
第一章 シュライアーマッハー『信仰論』における叙述
第一節 『信仰論』序論*2における叙述
第一項 信仰者の歴史性とその意義について
この問題に関して特に注目すべき命題は以下のものだろう。
§6「敬虔自己意識は他の人間的本性の本質的要素と同じくその発展において共有され、一方では不規則で流動的に、他方では規定されて区切られる。これがすなわち教会である。」
シュライアーマッハーはこの命題で、家庭や社会といった、特定の場所に集まりそこで生活をしている者たちは、同一の自己意識、すなわち類的意識Gattungsbewusstseinを持つと述べる。宗教もまた敬虔自己意識を共有するためにこのような意味での団体を必要とし、これを敬虔諸団体Die frommen Gemeinschaftenと呼ぶ。このことから、各々の敬虔諸団体において、信者は、団体特有の類的意識を共有してその敬虔団体を構成することが分かる。*3
この場合、信仰者のもつ歴史性とその意義は以下のようにまとめられよう。信仰者は時と場所を共有することによってこの類的意識(特にキリスト教の場合には神意識)の共有をするわけであるから、信仰者が特定の空間と時間を占めているということに、ある意義が存在するということになる。
第二項 キリストの歴史性とその意義について
『信仰論』序論における該当する議論はそう多くはない。一つには以下の命題を挙げられよう。
§11「キリスト教は敬虔の目的論的方向に属する唯一神教的信仰方法で、他のものとは本質的に以下の点で、すなわち、いっさいがナザレのイエスによって成就された救済に関係づけられている点で異なる。」
これは、ナザレのイエスが完全な神意識を持つお方であるゆえ、彼が創始者であるところのキリスト教は最高度の宗教であるという叙述である。しかし、ここでは私達が関心を持っている、ナザレのイエスの歴史性やその意義について詳しく展開されてはいない。
もう一つの命題は以下のものである。
§13「歴史における救済者の出現は神的な啓示として何か絶対的に超自然的なものでも超理性的なものでもない。」
シュライアーマッハーはここで救済者の出現に際して超自然性や超理性性を一切否定しているわけではない。しかし、そのような超自然性や超理性性は、それらだけが単独で強調されると、歴史における救済者の出現をいえなくする。従って、救済者の歴史性の中には、超自然的な要素と自然的な要素、超理性的な要素と理性的な要素の両方が存在することになる。
第二節 『信仰論』本論における叙述
第一項 信仰者の歴史性とその意義について
信仰者の罪の状態についてシュライアーマッハーはこう叙述する。信仰者の自己意識は類的意識と相まって内的衝動として働き、外的衝動と呼びうる神意識と結びつくことによって原初的完全性を形成するが、その原初性をそのまま保持することが出来ず、「神意識の曇り」(Stoerung des Gottesbewusstseins)が生まれる。これを罪と呼ぶ。
これに対して、神意識の曇りを取りのけてくれる、強力な神意識を持った者(すなわち救済者)との交わりを「救済の意識」と呼ぶ。信仰者がこの「救済の意識」を持つことが出来るのは、救済者の強力な類的意識を分与される敬虔団体、すなわち教会においてであり、教会はキリストと共にあるという意味で「共同生活Gesamtleben」と呼ばれる。
この救済のわざが教会の起源として説明されるにあたって、「聖霊」という単語が用いられているということを付け加える必要があろう。ここで言う「聖霊」とは「共通の霊Gesamtgeist」の働きをなす、キリストが付与した神意識のことである。以下の命題がそれである。
§123「聖霊Heilige Geistは神的な本質*4と人性とが信仰者の共同生活を活気づける共通の霊beseelende Gemeingeistの形で結合させるものである。」
つまり、聖霊が共有されることこそが神意識の共有であり、従って「共同生活」の意義もそこにあるということになる。このようにして、信仰者の歴史性とその意義は「共同生活」に連なることによって意味を持つことがわかる。
この叙述で注意しなければならないことは、この「共同生活」においてその共通の霊を信仰者に分与するお方であるキリストは、初代教会のみならずその後の教会においても継続的に神意識を分与しているということである。それでは、キリストには神意識を分与するための要素という位置づけ以上に何が残るのだろうか。つまり、キリストには固有の歴史性やその意義がどのように確保されるのだろうか。
第二項 キリストの歴史性とその意義について
『信仰論』本論におけるキリスト論の取り扱いは、§92から始まる。ここでは§94の命題を見てみよう。
§94「救済者は人間の本性的同一性においてすべての人間に似ているが、彼の神意識の常なるが故に他のすべての者と区別され、その神意識は彼の内で真に神の存在である。」
この命題は、ナザレのイエスをキリストだとシュライアーマッハーが論証する際の、重要なテキストである。シュライアーマッハーは第一に救済者の人間との同一性をいい、そして第二に「神意識の常なるがゆえに」、イエスが他の人間と区別されることを言う。
§22-2にあるように、神意識そのものを生誕の時に持っていたとか、あるいはいつまで経っても神意識は不完全なものであったとかいう考え方はここで排除される。前者は仮現論的異端であり、後者はナザレ派的異端と呼ばれる。
自身のキリスト論を仮現論的異端から擁護するのが§93-3である。ここでシュライアーマッハーが問題にするのは、救済者の神意識がいつの段階で完成したのか、それは生得的なものか、後天的なものかということであり、その結論として、生誕の段階で萌芽としてはあったとしても、完成は後天的なものであると主張する。
次に、自分のキリスト論がナザレ派的異端、つまり神意識の完成が公生涯の段階においても完成していないとは言わないために、以下のように論述を展開する。神意識の完成があり得ないとすれば、救済者の感化(「神意識の強力さ」)を受ける共同生活者への影響も原型的urbildlichというよりはむしろ模範的vorbildlichなものにすぎないことになる。
キリストの歴史性を論証するにあたって重要と思われることは、この「原型性」の概念である。この概念を理念的なものと理解するか、歴史的なものと理解するかがもっとも議論の分かれるところとなろう。
そこで、第二章において、私たちは以下の二つの視点からいくつかの文献を取り扱ってみたい。第一には、キリストの歴史性とその意義についてどう理解しているか、第二には、そのことと信仰者が持つ歴史性との関わりをどう理解しているか、である。
Richard R. Niebuhr(以下ニーバー)については、キリストの歴史性を「模範性」の概念を使って補っている例、また信仰者の歴史性をシュライアーマッハー独特の「創造」の概念を使って理解している例として取り扱う。
Wilhelm Pauck(以下パウク)については、「目的論的」という言葉と「歴史の中心」という言葉をキーワードとして、歴史概念そのものを再検討している例として取り扱う。
Hayo Gerdes(以下ゲルデス)については、歴史性の概念を「教義学的伝統」と呼ばれるものに基づいて検討・再提出することによって、シュライアーマッハーと同時代人であるF.C.Baur(以下バウル)の原型性の理解を批判した例として取り扱う。
Maureen Junker(以下ユンカー)については、バウルによるシュライアーマッハー批判の時代的変遷をさらに詳細に検討した後に、キリストの歴史性について「創造」の概念によって理解している例として取り扱う。
第二章 シュライアーマッハー研究の四つの例
第一節 ニーバーの理解
ニーバーは、"Schleiermacher on Christ and Religion"において、こう述べている。「シュライアーマッハーが原型性と模範性と呼んでいるイエスの有する二つの側面は切り離すことが出来ない。前者によって彼は救済者なのであり、後者によってその救済を分与するのである」。*5
「模範性」の概念をも用いて歴史性を理解するという立場は、決してユニークなものではない。*6この場合には原型性が純粋に理念的なものだとまでは言っていないが、少なくとも模範性の概念を伴わない限り十分に歴史的であるとは考えていないことになる。
ニーバーは信仰者の歴史性についてどう考えているだろうか。このことについて示唆を与えるのは、「キリストにおける形成」に関する議論である。*7彼がみずから「キリスト形成的」Christ-morphicと呼ぶ神学の中では、人間や敬虔諸団体という「質料」を形成、再形成、活性化(forming, reforming, informing)させることによって信仰者や教会へと昇華させることこそが「キリストにおける形成」の意義であると述べる。ニーバーが用いた「形成」の概念はシュライアーマッハーにおいては「創造」という言葉によって展開されているもののことであろう。*8
この議論の特徴は、この論法を単純に人間についてだけ当てはめているのであればそれは通常の意味での「創造」についての議論であるのだが、それを敬虔諸団体にも当てはめ、教会の成り立ちをもここから考えようとしているところにある。それゆえ、ここで「形成」すなわち「創造」概念によって、歴史性についての議論をもしていると言うことができるだろう。
ニーバーはキリストの歴史的個体性と信仰者の歴史的個体性との間の関係について、よい示唆を与えてくれている。確かにこのことによって、キリストと信仰者(ないし教会)との関係を具体的に考えることが出来るようになった。
その一方で、原型性の概念を単独で歴史概念だと考えなかったニーバーの姿勢はどう評価すればよいだろうか。*9また、このことが、原型性を持ったキリストには結局十分な歴史性が与えられず、単に形成作用の媒介としてしか位置を持たなくなるのではないかという疑いを惹起してしまう。*10
第二節 パウクの理解
パウクは"From Luther to Tillich"の中で、中期までのシュライアーマッハーの歴史観を、「極小的」atomic、「実際的」pragmatic、「有機的」organicの三種類に分類し、そのうち「有機的歴史」に重きを置いていたという。この「有機的歴史」は、さらに「客観的」歴史と「主観的」歴史に分類され、「客観的」歴史(ちょうどそれは生命における肉体に相当する)は科学的に扱い得、分割可能な要素のことであるのに対し、「主観的」歴史(魂に相当する)は思弁的な、全体性を持ったものであるという。そのことによって、歴史は偶発的なものではなくなり、ある「目的」を持つようになる。これが中期までのシュライアーマッハーに支配的な「目的論的」理解である。その「目的」とは宗教においては最高善をなすということにあり、「目的論的宗教」に高い価値がおかれることになるという。このモチーフは、晩年の「信仰論」においても消えてはいないといえるだろう。*11
このことに加えて、晩年にシュライアーマッハーに現れたもう一つの理解は、「進歩」の概念であるという。
「シュライアーマッハーはその生涯の終わりの段階において、キリスト教が徹底的に最高の宗教であって他の宗教はだんだんキリスト教に吸収され超克され、それによって人間性は完成すると確信していた。彼が『イエスの生涯』の講義においてその始めに特にこう言っている。『私たちは人生が絶え間ない進歩Fortschreitungにあって決して目的なき円環ではないという確信に立たなければならない…』。この「進歩」というタームはシュライアーマッハーが『キリスト教倫理』の講義の中でも用いている。」*12
進歩とは、ある目的を目指す過程ではなく、キリストへの服従が増大することa growing conformity with Christであるという。その場合、キリストは歴史の到達点ではなく、中心であると考えられることになると言って、彼はWilhelm Dilthey(以下ディルタイ)のこの言葉を引用する。
「キリストは歴史の中心である。なぜなら、彼の原型的な生活と彼との共同によって実現したキリスト者の弟子たることは『神秘的な結合』であり、そこにおいてキリスト教は…理念的な世界に含まれていることを、最高善の実現のために具現するのである」*13
ここでパウクはなぜ「神秘的」という言葉を強調してこの文章を引用したのであろうか。「キリスト教」すなわち歴史性を持った教会が理念的なものと結合する方法が「神秘的」であるということが、パウクにとって「歴史の中心」を理解するために肝要だったのである。
パウクは、歴史叙述のためには、主観的で思弁的な、全体性を持った面と、客観的で科学的で、分割可能な要素を叙述する面が必要なことを主張する。そのために彼は§2の文章を引用するのである。
「いわゆるアプリオリな構築は、演繹されたものが歴史的所与と同一であることを示す段にいたって悲嘆にくれるであろう。一方で、純粋に経験的な方法は本質的・永遠的なものを可変的・不確定なものと区別することを理解・定式化しない。」*14
そう言って、シュライアーマッハーが思弁的なものと経験的なものとの結合を志向していたことをパウクは述べる。パウクは、シュライアーマッハーの問題意識の中に、思弁的なものと経験的なものとの関係をいかに調停するかということがあったことを捉え、その結合が「神秘的」になされるということに、ある解決法を見出したのではないだろうか。
第三節 ゲルデスの理解
シュライアーマッハーの同時代人、バウルによるシュライアーマッハー批判を手掛かりに、シュライアーマッハーの歴史理解を明らかにしようとするのがゲルデスである。
バウルはまず第一にキリストの概念の基礎を「原型性」に見いだし、そのことと歴史上のナザレのイエスとを区別して考える。バウルにとって「原型性」の概念は、理念的なものであり、従って救済者の概念は非歴史的なものであった。*15それに対して、「ナザレのイエスの人格は本当に特有な、そこにおいて救済者の概念がうち立てられるようなものであるのか、という問題は、まさしく純粋に歴史的な問いであり、ただ福音書諸文書を歴史的に研究することによってのみ答えられる問いなのである」*16と言い、非歴史的なものと歴史的なものとのイエス・キリストにおける結合をシュライアーマッハーが目睹しているとして批判するのである。
ゲルデスはこのバウルの言葉を引用した後に、ここでいう「歴史的」という概念についての批判を行う。「彼は相当ぎこちなく教義学の『歴史的立場geschichtliche Haltung』という表現を『歴史的原初的なものfundamentum historicum』という言葉に翻訳してしまい、シュライアーマッハーが意図したように、教義学的伝統との結合の上に歴史的な立場を位置づけず、歴史的な始まりのあるキリスト教信仰の上においている。」*17
彼は自分の見解の正当性を論証するために、テキストの発展史的な研究方法*18を取り入れた上で、以下のように結論づけた。
「第一版においては人性の普遍的な性質から来るアナロジーが用いられていた。…第二版においてこのアナロジーは欠落し救済者の歴史的人格に関することが非常に強く際だたせられている。」*19
彼はナザレのイエスの救済者としての位置を「教義学的伝統」から導出できると考えているのである。
この「教義学的伝統」とはなんであろうか。シュライアーマッハーは教義学の定義について、以下のように述べている。
§2「教義学は一つの神学的学科であり、それゆえ単にキリスト教会とのみ関連を持つゆえ、それがなんであるかについては、ただ教会の概念を理解した時にのみ説明しうる。」
ここにおいては、教義学は教会の外から教会を考察するという要素を一切持たないため、「教義学的伝統」から導出されるイエスとは、即座に教会(共同生活)において知られるイエスということになる。
このことは、イエス・キリストの歴史性とその意義を世界史的には喪失し、また教会史の中に限定するものであるといえる。そして、キリストの歴史的個体性と信仰者の歴史的個体性との関連性は同じように教会の中においてのみ言えるということになる。
第四節 ユンカーの理解
彼はバウルの理解を前期と後期にわけ、前期においては超自然主義Supranaturalismusの立場におり、後期においてヘーゲルの影響があると分析している。*20
ここでは後期の批判の内、特にヘーゲルの影響を受けているとユンカーが分析している批判を見てみよう。*21
第一には、「信仰者に分与された救済意識からは、救済者の完全な無罪性や完全性の分与は分からないのではないか」という問題。*22
第二には、「原型性の概念をイエス・キリストという個体が持つことには無理があるのではないか」という問題。バウルはここで「歴史的な救済者の必然性は、創造の完全さの必然性の内に含有されている」、それゆえ原型的な救済者の「歴史的な存在」の概念には到達せず、余分とさえ考えられる、と批判しているという。
ユンカーは、このうち第一の、彼が「逆推理」と呼ぶ問題について、以下のように論難している。
「信仰者の状態から神意識の付与者の状態を推理しようとすることへの批判は、シュライアーマッハーの問題意識とはそもそも根本的に異なる。シュライアーマッハーにとっては、イエスが完全な神意識を持っていたことは前提であり、それについての議論はしていないのである。」*23
しかしその一方で、第二のものについては、有効な非難をしていないばかりか、彼自身が「創造」の概念によってイエス・キリストの歴史性を論証しているのである。*24
従って、ユンカー自身の歴史性を巡る理解としては、「創造」の概念によると言ってよいであろう。
第三章 結論
ここでは、以上の文献の分析を踏まえて、論者自身の見解を示してみたい。
第一に、キリストの歴史性とその意義についてであるが、ニーバーなどがするように「模範性」の概念によらずとも、「原型性」の概念に歴史性を与える方法は、十分にあるように思われる。それは、イエスの成長(発展)過程において原型性を獲得する際、「民衆的」volkstuemlichであることが必要であるという§94-3〜4の記述である。彼が民衆的であることは、原型性を獲得する際に、「闘争Kampf」から自由であることが要請される。*25そして「この民衆性Volkstuemlichkeitの規定は彼の生涯の本来的原理に関係するのではなく単にその構造にのみ関係する」*26と述べられている。
この論述の特徴は、ナザレのイエスが非凡であるがゆえに彼が救済者であるのではなく、逆に平凡(民衆的)であるがゆえに、彼は救済者であるということにある。シュライアーマッハーが救済者に対して付与した歴史的個体性は、形式的にはこの「民衆性」によって確保されているのではないだろうか。
第二に、キリストの歴史性とその意義は、信仰者の持つ歴史性の意義にどのように影響を与えるであろうか。第二章では参考になりそうな見解として、「創造」によって歴史を理解する見解(ニーバー及び一部ユンカー)と、「教会における歴史」ということを考える見解(ゲルデス)を紹介した。
まず、創造の概念から「歴史性」について考えるのは、通常はあり得ない方法であるが、シュライアーマッハーが「創造」の概念を「保持」の概念のもとにおいていることで、確かにこの方法によっても歴史性について考えることは出来る。しかし、その際でも、「創造」が行われるのは救済者による神意識の分与によるのであって、そのことについて考えないで「歴史性」について考えることは出来ない。従って、信仰者に対する神意識の分与をどういうふうに考えるかが重要なのである。
次に、歴史性を教義学的伝統(ないし教会)から考えるという方法についてはどうであろうか。ゲルデスの理解によるシュライアーマッハーが考えた歴史と、バウルが考えるような聖書記述に歴史性を認める歴史を比べれば、ゲルデスが認めるように、「われわれは当然バウルの時代に所属している」*27といわざるを得ない。確かにゲルデスの理解によるシュライアーマッハーの歴史観においては、イエス・キリストと信仰者それぞれに付与される歴史性を密接に関連づけて扱うことが出来る。しかし、その場合であっても、結局教会の概念を考察するにあたって、「神意識の分与」とはなんであるかについて考える必要が生じる。いずれにせよ、「神意識の分与」とは何であるかが問題になるのである。
そこで、「神意識の分与」に関して、パウクや彼が引用したディルタイの「神秘性」の概念をここで用いることが出来ないかについて検討しよう。
ユンカーの「第二版においては人間的比喩が少なくなっている」という主張を見た際に、注19において、重要な人間的比喩が残っている例を指摘した。ある一人の英雄的人物が一つの共同体で他者に感化を与えていく、という例である。シュライアーマッハーはその例を、「神秘的」であることの例として用いているのである。
「しかしこの例示でさえも貧弱で劣った文化程度のみを認める人々からは神秘的であるかも知れない。それ故に私たちはこの意味で神秘的と呼ばれるような事態に満足しよう。当然全てのことはこの神秘的とも呼びうる中心的な事柄から導出されるからである。」*28
こう言って、神秘的mystischという言葉が、救済者によって信仰者に聖霊が付与される過程を表現する言葉であり、その過程はゲルデス風に言えば「人間的な比喩」によって了解されうるというのである。さらに、この神秘的なものは、経験的empirischなものと魔術的magischなものを排除する形で提示されるのである。
シュライアーマッハーの神学を考える場合、歴史性とその意義を巡る問題とは、救済者と信仰者との関係の問題に他ならない。結局のところそれが「創造」の概念で考えられるのか、「教会」の概念で考えられるのか、あるいは「神秘」の概念で考えられるのか、という問題になるだろう。この内のどれか一つが正しいというものではないと思われる。しかしここで彼の救済概念が単に経験可能なものではなく、しかし理念的なものでもなかったことを考え合わせれば、彼の言う「神秘」という、それ自身歴史性を含有していると考えられる概念において考えることには、意義があると言えよう。*29
一次文献
Der christliche Glaube nach den Grundsaetzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt.Erst Auflage,Berlin,1821/1822.
Der christliche Glaube nach den Grundsaetzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt.Zweite Auflage,Berlin,1830/31.
信仰論、高橋英夫訳、筑摩書房、1991年。*筑摩書房「世界文学大系」にもと所収されたものの改訂版で、これはDeutsch Bibliothekに所収された初版(1799年)を底本としている
参考二次文献(直接言及したもの)
Wilhelm Dilthey, Schleiermachers System als Philosophie und Theologie(Gesammelte Schriften XIV Band),Goettingen,1966.
Hayo Gerdes, Anmerkungen zur Christologie der Glaubenslehre Schleiermachers, in:Neue Zeitschrift fuer systematische Theologie und Religionsphilosophie, 25.BAND ,Berlin,1983.
Mureen Junker, Das Urbild des Gottesbewusstseins(Schleiermaher-Archiv Band 8),Berlin,1990.
Wilhelm Pauck, From Luther to Tillich - The Reformers and Their Heirs, NY, 1984.
A.McGrath, Making modern German Christology,Oxford,1986.
森田雄三郎、キリスト教の近代性、創文社、1972年。
Richard R.Niebuhr, Schleiermacher on Christ and Religion,NY,1964.
シュトラウス、イエスの生涯、岩波哲男訳、教文館、1996年。
*1第五講(239ページ)ではキリストは自分の絶対性を主張する代わりに聖霊を指し示していたと指摘する。
*2シュライアーマッハーは『信仰論』を命題とその説明文によって構成している。命題は172(これを§172と呼ぶ。以下同じ)まで存在し、その内§31とその説明文までを「序論」、それ以降を「本論」という風に呼んでいる。序論だけで一応完結した記述になっているので、ここでは分けて考察した。
*3ここで、宗教間の差異と教派間の差異にシュライアーマッハーは区別をもうけている。後者についての命題は以下のものである。§24「宗教改革が(ローマ・カトリック教会の)単一性の濫用の浄化とそこからの回帰であったのみならずキリスト教的共同体の固有の姿がそこから生まれるのである限り、人は福音主義教会とカトリック教会の対立を暫定的なものと見なし得、前者は個人の教会との関係をキリストとの関係に依存させ、後者は個人のキリストとの関係を教会との関係に依存させる」。同一の神意識を共有しているはずでありながら別のキリスト教的共同体を営み、別の要素を持っていても、それらの要素は互いに並置(あるいは交換)可能であるとする。
*4伝統的な教義学の用語で言えば「神性」。
*5p.226
*6たとえば、A.McGrath, pp.44-45
*7元々シュライアーマッハーは『信仰論』の中で、何カ所かに分けて創造の教理について取り扱っている。その特徴は、第一に創造と保持の概念とを区別しないこと、第二にキリストが十分に原型的であれば生産的であると述べていることである。このことによって、神意識の付与を創造と結びつけて理解していることが分かる。
*8「形成」とははおそらく「保持」の概念のことであろう。後者の方がシュライアーマッハーの場合には「創造」よりも広いということからこう呼んでいるのであろうが、ここでは議論の一般性を確保するために、彼も「創造」概念の利用者の一例と見なすことにした。なお、実際にニーバーが「創造」という言葉を使っている例はp.214参照。ここで、キリストにおける創造は「無からの創造ではない」とニーバーは述べる。シュライアーマッハー自身におけるいわゆる「キリストの先在」の議論については、§40-1における「世界は…神の言葉das von Gott Gesprocheneによって生まれた」が関係すると思われるが、ここでの議論は割愛する。
*9たしかにシュライアーマッハーは§100(キリストの人格とわざとの関連)において、内容的にニーバーのこの主張に当たることを言ってはいるのだが、この箇所で"Vorbildlichkeit"という言葉を用いていないのである。
*10これと同じ問題を抱えた理解が森田雄三郎、78ページ、第2章「神学的領域における歴史的個体性の発見」に見られる。
*11パウクは、この関連でローマ・カトリック教会と福音主義教会についての異同に関する命題(§24)を理解する。この命題を彼は目的論的な観点から考察し、キリストへの信仰とその生が複数の教会的形態を認めていると述べる(p.73)。
*12p.71
*13p.71。パウクはKonnexをconnectionと訳しているが、ディルタイの原文(S.511)を参照した上で「結合」と訳した。
*14p.75。パウクが文字通り引用していないのでパウクの引用した文章をそのまま訳した。
*15「そのような救済者は救済の理念を人格的に考察して導出されるものであるのか、それとも歴史的に固有の意味があるのか」についてバウルは問題にし、一応シュライアーマッハーを後者に位置づける見解を取りながら、同時に救済者の概念が含む、無制約的神意識とか真正で完全な敬虔といった概念が要請されていることを批判する。
*16Tuebinger Zeitschrift fuer Thologie(1828),S.254.原文が参照出来なかったので、ゲルデスの文章から孫引きしている。
*17S.115.
*18たとえば、『信仰論』第一版で§109で使われている単語は「立ち戻る」であるが、第二版においては相当する命題といえる§88において「引き起こされる」になっている。ここでゲルデスは「立ち戻る」とか「進歩」といった概念は、人間的な比喩を用いた、第一版における概念であると見なしているのである。
*19S.116.なお、ゲルデスが自分の主張を展開する際に根拠としている、「第二版においては人間的な比喩が減少する傾向にある」という証明であるが、シュライアーマッハーは第二版でも重要な比喩を残している例が散見される。たとえば、§100-3において、ある一人の英雄的人物が一つの共同体で他者に感化を与えていく様子が記されている。この引用に関連する事柄は第三章で述べる。
*20このユンカーの区分に従えば、ゲルデスのバウル理解は前期バウルに限定されることになる。
*21ユンカーは後期バウルによる批判を三点挙げており、第三の点とは、「人間の敬虔自己意識が救済になるのなら、キリストの敬虔自己意識は不要になるのではないか」という問題である。
*22全く同じことをシュトラウスが述べている。『イエスの生涯』599ページ及び次ページを参照。
*23S.148.
*24特にS.177-180.もちろん、両者には違いもある。バウルの理解に「存在論的」ontologischという形容が見られる。S.144.
*25「律法のもとに生まれ」ながら罪から自由であったということであろう。§93-3参照。
*26§93-4
*27S.115.さらにわれわれは聖書批評学の発展のもとで、場合によっては聖書記述にすら歴史性を認めなくなった時代にいるかも知れない。
*28§100-2
*29「教会」が倫理学Ethikから理解されねばならず、決して科学や経験によって理解されてはならないという§2-2の記述における「倫理学」の位置づけは、この「神秘的」という言葉と似た位置を持つ。この両者の関連については、なお検討する必要があろう。