教会規則(準則)は教規に違反しているか


もう一つ、現行の教会規則準則は教規に違反しているという、過激とも思われる問題提起をしています。これも先ほどの「教規だけ主義」(3.)の立場から来る問題点なのでしょうか、それとも、その立場に立ったときにも問題提起に応えうるのでしょうか。

第86条は「教会規則には次の事項を規定しなければならない」として、次の10項目を掲げています。
1. 名称/2. 所在地/3. 礼拝、伝道その他集会に関する事項/4. 教会担任教師に関する事項/5. キリスト教教育主事に関する事項/6. 信徒に関する事項/7. 役員に関する事項/8. 財産の管理および財務に関する事項/9. 公益事業に関する事項/10. 合併および解散に関する事項

そのうち、準則通りに各個教会が規則を制定した場合、最も広くとっても10.が必ず抜ける、という点を問題にしています。(この問答は一応信徒の方が読む事を想定したいろは問答集なので、細部については言及しません。一言だけ述べると、現在の法体制になるまでに変遷があり、規定も一様ではありません。いわゆる法制史関係の資料を読めばおわかりいただけること、たとえば「公益事業の位置づけ」や「教会的権能」という言葉の意味、などはここでは触れません。)

教規86条で10.が掲げられているのに、教団が求めている教会規則(準則)には確かに入っていません。制定者の意志としてどういう事が想定されるのでしょうか。

教規86条が求めている教会規則とは何かということですが、古い教会(準則制定以前)の教会は、この準則に基づいた教会規則を持たない教会も結構あるのではないかと思います。しかしそのような場合であっても、10.は宗教法人◯◯教会規則の中で満たしているはずです。確認してみてください。厳密にいうと、86条の8.で求めていることについても宗教法人法に基づく教会規則の中で必ず触れているはずです。逆にいえば、これらが宗教法人法に基づく教会規則の中にも、教団が求める教会規則にも入っていない場合、深刻な違反状態にあるといえます。ただちに改善が必要となるでしょう。

よく考えると、この方の問題提起の意味がよくわからないのですが、「10.は入っていてもいいじゃないか」という意味なのでしょうか。それとも「入っていないといけないはずだ」という意味でおっしゃっているのでしょうか。

10.を入れたものを教団が同意するかというのは実はなかなか難しい問題があります。ご存じの通り、1972年というのは教団の中で「国家と教会」ということが厳しく問われた時期です。その問いに対して準則の作成に携わったメンバーは非常に忠実に答えていると思います。つまり、意図的に10.の記述を外した準則を制定した、ということです。

入っているとまずいことがあるのでしょうか。

本来86条の10.の記述は宗教法人法から来る要請です。あったら教会としてまずいのかというと答えにくいのですが、はっきりしていることは、宗教法人法が改正されればこの部分の記述が変わる可能性があるということです。つまり、国家が教会に介入する余地が実は10.を通じてあり得るのです。それに対して、教会規則の方では教会法(教憲・教規)に基づく教会規則と宗教法人法に基づく教会法を切り分けて、後者にのみ当該項目を盛り込むことでこの「国家と教会の問題」に対する教団の立場を明確にしています。

それでは教規の方に問題があるということにもなるのでしょうか。

それが難しい問題だといった理由です。実は、私の知る限り、2000年前後以降、教団総会にいくつもの教規変更議案が出されています。それらのいくつかは、教規の中になぜか入り込んでしまっている国家介入条項を丁寧により分けていく作業でもあるのです。例えば、似たような事例としては、2002年までは86条の中で「責任役員に関する事項」を盛り込むことを求めていました。当然ですが責任役員に関する事項を教会法に基づく教会規則の中に盛り込むのはまずいわけです。これは教団総会で議論した結果、削除されました。

他にも似た事例はありますか。

例えば、教師の欠格条項として「信仰以外の理由で禁錮以上の刑に処せられた者」というものがあり(127条3)、刑に処するのは国家だから、これをそのままにしてよいか、という問題が挙げられます。その背景として、宗教法人の責任役員(代表役員すなわち主任牧師を含む)就任の欠格事由として、「禁錮以上の刑に処せられたもの」が掲げられていることがあります。従って、当該者は(破産者と同様)主任担任教師になるのには差し障りがあります。以前一度削除の議論があったのですが、存置しています。技術的に難しい問題があり、127-3は「信仰による禁錮刑を受けた者を守る」条項という風にも読めるのです。そうであれば、これをうかつには削除できません。(また、教会の主任担任教師になれない人をそもそも教師として認めるわけにはいかない、というのも思想として背後にあるのかもしれません。)86条については7.だけ先に是正し10.を残したということはそれなりの意味があるのかも知れませんが、いずれきちんとした問題提起をして教規の改正となるかもしれない箇所です。

なんと、教会規則(準則)に問題があるのではなく、教規に問題があるというわけですか。タイトルの逆になりますね。

先にも書いたように、これは難しい問題です。私がここで書いていてもなんの問題提起にもなっていないからです。このHPを関係者が見ているとは余り思えません。反応ないし…。しかし、いつか変わるかもしれませんね。


2009/07/15
  • 戻る
  • 続く
  • 根源に立ち返ってトップへ
  • 「上田は何者なのか」に戻る
  • 「教会法ってなんだろう」に戻る