シュライアーマッハー『信仰論』におけるキリスト論
――特にペルソナの問題を巡って――
(目次)
 序――基本命題の解説―― (1)
 神意識について (11)
  GL序論の場合
  GL本論の場合
 キリスト論 (20)
  キリストの人格について
   キリストの人性
   キリストの神性
  ペルソナの議論の批判的考察
 評価と展望 (36)
  歴史性の問題
  いわゆる「二つの焦点」について
  聖霊の神学の可能性
(参考文献)
 序――基本命題の解説――
 本論考で扱う"Der christliche Glaube nach den Grundsaetzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt"(=通称Glaubenslehreすなわち『信仰論』、以下GLと表記)をFriedrich Daniel Ernst Schleiermacher(以下シュライアーマッハーと表記)(1768-1834)が著したことによって、彼にはキリスト教会において、複雑な評価が与えられている。一方ではこの本を、絶対依存感情によって宗教を規定する「ロマン主義の現れ」であるとみなし、卑しめる意味で「自由主義神学の祖」と彼を呼ぶ。他方で、全く同じ「自由主義神学の祖」という言葉によって、彼を尊ぶ向きもあるのである。
 その如何は、彼がその神学を正統的な信仰から逸脱しない範囲*1で、その時代に妥当する表現で*2展開しているか否かにかかっている*3。たとえばキェルケゴールの「神と人間との質的差異」を物差しとして彼の神学の正当性を測るとすれば、まず第一に「人間論」を扱うことでわかるという可能性があろう*4。あるいは別の方法として、まず「神論」*5を扱うことでそれがわかる可能性もあるのである。
 私たちがここで本論考を「キリスト論(特にペルソナ)」のタイトルの下で展開することは、この前者の系譜に属することになる*6。なぜなら、シュライアーマッハーの有名な宗教概念である「絶対依存感情」schlechthinniges Abhaengigkeitsgefuehlの言い換えである「直接(無媒介)自己意識」Unmittelbarselbstbewusstseinが本論考で扱う「神意識」Gottesbewusstseinのことに他ならないからである*7。つまり、彼は人間の持つ敬虔さFroemmigkeitが直接的自己意識の一様態であることを用い、これを媒介としてキリストが救済者*8Erloeserであることを論証するというスタイルをとることで、人間論(特に人間の救済論)の枠組みの中でのキリスト論を展開するのである。
 すでにこのことが彼のキリスト論の特徴の一つを示している。それは、彼のキリスト論がまず第一にキリストの人性の叙述から始めている、ということである。カルケドン定式に沿っていえば、「マコトニ神、マコトニ人」ではなく「マコトニ人、マコトニ神」と発音するところに特徴があることになる。
 それでは、私たちはまず最初に、この論文でキーテキストとしたいセンテンスを二つ(私たちの考察においてはほぼ同じ意味をなすのであるが)掲出し、以後「基本命題」と呼ぶ。
「…キリストに絶対に強力な神意識を帰することと、キリストに彼の内なる神の存在を付与することは、全く同一事態をさす…*9
「こうして、キリストのみが、そのための唯一の根元的な場であり、神の本来的な存在がそこに臨むような唯一の他者*10なのである。もっとも、それは、我々がキリストの自己意識のうちにおける神意識を、不断にまた排他的、あらゆる瞬間を規定するものとして措定し、従って、また至高存在のこの完全な内住をキリスト独自の本質、またキリストの最内奥の自己として措定する限りにおいてである。*11
以下、予備的考察としてこの基本命題の仕組みを理解した上で、本論に入りたい。
 基本命題は、いずれも
「キリストが神意識を持つということ」 すなわち
            「キリストのうちに神がいましたもうこと」
であるということを述べている。
 まずこのことが、人間の救済にどのような意義を持つかということについてであるが、
§68命題「洞察と意思の力の不均等な発展の結果としての罪は人間の原初時における完全という概念を無効にするものではなく、本性の攪乱と見なすべきである。」
とある通り、人間の罪は「本性の攪乱」であり*12、§11によれば神忘却Gottesvergessenheitとも呼ばれるものである。人間は決して神意識を完全に持たなくなったわけではない*13が、自力では再び神意識を獲得することはできない。
§88命題「イエスの影響にまでさかのぼるこの共同生活において、救済は彼の罪なき完全性の分与を通じ、彼によって引き起こされる。」
 その状態を打破し、再び神意識を持つことができるようになるのは、キリストとの共同生活Gesamtleben*14によってである*15。それ故に、人間は信者として教会の構成員となり*16、唯一神意識を強力に持っているお方である救済者キリストの神意識を分与してもらうことで救済(再創造*17Umschaffungともいわれる)は完成する*18
 このシュライアーマッハーの救済論において展開されているキリスト論は、以下のような諸特徴を持つ。
 そこで、本論文では「絶対的な神意識を付与することと神存在の内住とが同一なのはキリストにおいてのみである」という命題について考察するわけであるが、これを「絶対的な神意識付与は神の内住と同一」という前半部分についてまず第一に考察し、これはなぜそういえるとシュライアーマッハーは考えているかを叙述し、その神学思想史的背景や動機付けについて一見する(第一章)。そののちに、「キリストにおいてのみ」という、命題の後半部分について次に考察する。ここではキリスト論が問題になるので、キリストのペルソナについての彼の教説と伝統的な教説との折衝も行う(第二章)。最後に彼のキリスト論の神学的意義を述べてみたい(第三章)と思う。
第一章 神意識について
 第一章第一節 序論の場合――§4を中心に――
 さて、私たちは、すぐさま§94の命題の考察に取りかかるのではなく、まず第一に序論においてこの命題がいかなる表現をとっているかに注目してみよう。というのは、「絶対的な神意識これすなわち神の内住」という表現に近いものが§4に見いだされるが、このことと「キリストにおいてのみ」という表現の部分を含意する§11が分離されて主張されていることを確認しなければならないからである。
 §4の命題は
「多様な表現はあっても(他の感情から区別されて)敬虔に共通なのは、つまり敬虔の変わらない本質は、以下のものである。すなわち、私たちが自身を絶対的に依存するものとして、あるいは自身を神との関係の中で意識することである。」
となっている。この命題は、「敬虔とは絶対依存感情すなわち神関係の意識」といっているのであるが、ここで「絶対依存感情」と「神関係の意識」(すなわち神意識)とが同じ扱いがなされていることに注目したい。シュライアーマッハーは§3でしきりにこの「敬虔」が感情概念であることを強調し、これが「知識」Wissenでも「行為」Tunでもないこと、あるいは知識でも行為でも感情でもない第四のものでもないことを繰り返している。それは§3の叙述によれば「自己のうちにとどまる」Insichbleiben(知識と感情という二形式の意識の特徴)、という条件と、知識のように認識行為Erkennenとして「自己の外に出ること」Aussichheraustretenをしない条件を兼ね備えた形態こそが受容性Empfaenglichkeitに属する*20といって、感情こそが敬虔概念に当てはまるカテゴリーであることをいう。それ故に、感情の特徴は受動性にこそある*21。このことによって、一方でスコラ主義的ないし啓蒙主義的な、つまり主知主義的な敬虔概念を排除し、他方でカントの道徳律による神の存在要請、すなわち意志によって神を知るという考え方*22を排除しているものと思われる。
 そして自己意識は二通りに区分されるという。自己を対象化する自己意識と自己を自己たらしめるような他者を前提とした自己意識がそれであるが、そのうち後者のことをシュライアーマッハーは「直接自己意識」と呼ぶ。前者は「自発的活動性」Selbsttaetigkeit(それ故に「自由感情」Freiheitsgefuehl)を、後者は「受容性」(それ故に「依存感情」Abhaengigkeitsgefuehlを)を含意する。すると、依存感情すなわち直接自己意識は、何らかの「他者」を必要とする。しかし、その「他者」とは依存感情と自由感情とを共有している他者であるのがふつうであり、通常「相互作用」Wechselwirkungを起こして個体内における自己意識総体Gesamtselbstbewusstseinとなる。それは結局自由感情と依存感情との混合でしかない。自然*23の中に見いだされる他者とは作用-反作用を起こすような他者でしかないのである。*24「それゆえに絶対依存感情は私たちにとってfuer uns全く存在しない」*25
 これに対して、シュライアーマッハーは「絶対依存感情」の存在証明は行わない。なぜなら「絶対依存感情」の存在証明は結局「神の存在証明」になるのであり、決して彼の意図するところではなく、またその必要も彼は感じていないのである。かくして彼において、「絶対依存感情」は存在する。*26そして、その「絶対依存感情」は自然や世界において私たちと相互作用を起こすような「他者」ではないようなたぐいの「他者」を要請する。
 §4の説明文第四項がもっと私たちの命題に引き寄せた叙述を行っている。第四項はこのようにして始まる。
「しかし、絶対依存感情と私たちの神との関係が並置されている場合には以下のような理解が必要である。この自己意識の中に措定された、受容しかつ行為する私たちの現存在のまさに『どこから』(『出所』)が、『神』という表現によって表されねばならず、これが「神」の私たちにとってまさに根元的な意味なのである。」
 ここで指摘されねばならないことは、意識と共におかれたmitgesetztこの「現存在の『どこから』」は意識内容のレベルに限定された概念ではなく、文字通り根源的urspruenglichな、存在をも含むような概念であることである。それ故に、
「神は感情において根元的な仕方で私たちに与えられている」
といわれるのである。*27
 さて、本節序文でも述べたように、このような「神意識これすなわち神の内住」という定式は、「教会概念、倫理学からの補助命題」(§3から§6までがその中に収められている)という題の下に展開されている。これに対して第二章で考察する「キリストにおいてのみ」という部分と対応する、「キリストによる救済」は§11で展開され、§11は「固有の本質に基づいたキリスト教の叙述、弁証論からの補助命題」という題の下に展開されている。つまり、序論では、私たちの基本命題のうち、「神意識すなわち神の内住」という部分と「キリストにおいてのみ」という部分とが切り離されて展開されているのである。
 これは何を意味するのだろうか。序論はキリスト論を中心に組み立てられていない、あるいは『宗教論』の影響から脱し切れていないなどといってしまえば、それまでであるが、「敬虔団体」の宗教における必要性を、ナザレのイエスの独一無比の性格よりも先に叙述しているということは、一応の必然性がある。それは、信仰者がその宗教においてどこに位置づけられるかがはっきりしていないと救済論を叙述することができない、という事情である。このことが、私たちが第二章でキリストのペルソナについて考察するときに、まずキリストの人性から叙述を始める際の根拠となっている。
 もう一つ付け加えれば、シュライアーマッハーとて教会がキリストから生まれたことを否定するわけではない。本論であるが§93-5において「キリスト教会において展開されるすべての教理と規則は、それらがキリストに遡源されるということによってのみ、普遍妥当的権威を保持する」といっているとおりである。それだから、キリスト→教会というのが「存在の順番」と言うとすると、この教会→キリストというのは「認識の順番」なのであり、序論におけるシュライアーマッハーの叙述のスタイルは後者の順番で考えていることになる。*28
  第一章第二節 本論の場合――§94を中心に――
 前節ではGL序論の場合における「神意識すなわち神の内住」について考察したが、これがキリストにおいて特に見られることをいうのがGL本論、特に§93以降である。ここでは「キリストにおいてのみ」という私たちの基本命題の前半部分の考察は第二章において行うことになっているので、第一項と同じく「神意識すなわち神の内住」という後半部分についてのみ考察を行うことにする。
 さて、「神の内住」が起きるというのはどういうことだろうか。シュライアーマッハーは
「『何らかの他者の内における神の存在』という表現であれば、いつもこの他者に対する神の遍在の関係を意味するのみである」*29
といい、一般的被造物への神の内住はいわない。そうではなく、何らかの特定の個物における神の内住を言おうとする。その個物の条件はなにか。通常は、意識ある個物は常に能動性と受動性を兼ね備えているのであるから、「相互作用」は避けられない。これは感覚的自己意識を持つ存在(被造物一般)全体の共通特徴である。
 それに対し、直接自己意識すなわち絶対依存感情を持つ存在は、「対立は再び解消し、主体と対立する全てのものを、主体と同一なものとしてその中に包括する」*30存在であり、それは「普遍的相互作用」に他ならない。そしてこの個物には神が内住すると言えることになる。
「受動的状態がただ受動的ではなく生きた受容性に媒介され、有限存在の総体と対置されるときにのみ、すなわち生きた個物についてそれが普遍的相互作用の力によってそれ自身のうちに世界を表していると言いうる限りにおいて、人はその中に神の存在を想定できることであろう」*31
ある個物が普遍性を持つことによって「普遍的相互作用」は可能なのである。「世界の中に神の存在がある」*32という表現は、「世界」の役割を果たすようなある個物の存在を要請することで落ち着きどころを得るのである。
 では、この「生きた受容性」とはなにか。言い換えれば、神意識を持ったキリストはなぜ普遍的相互作用を持つ「生きた受容性」と呼ばれるのか。§93にはいくつかの叙述が見いだされる。
「彼の発展は、闘争として示されうるものはなんであっても、それらすべてから完全に自由であると考えられなければならない。なぜなら、内的闘争がいつか起こった場合、その痕跡が全く消滅することはあり得ないからである」*33
「民衆性Volksmuetlichkeitは、決して彼の自己活動の型ではなく、単に霊の自己活動に対する彼の受容性の型であるに過ぎない」*34
「そして絶対的最大であり、神意識の主体としての人間という概念は完成されるものとしての創造的な神の行為」*35
 キリストが、生涯において感覚的性質の均衡を保つための働きを強いられること*36はなく、それ故に彼は自己活動において特筆すべき特徴を持つのではなく、受容性において特徴を持つ。これをシュライアーマッハーは「霊の自己活動の受容性」と呼んでいる。そして、重要なことにそれが神意識を持った(キリストという)人間を産出する「創造的な神の行為」であるというのである。そして産出された(キリストという)人間は、自らも創造的である(§94-3)。これがなぜ重要であるかと言えば、第二章で述べるように、神意識が霊的な働きとしての創造性ないし生産性を持つということになるからである。
 このような神意識の働きは、キリストの生涯(第二章第二節でふれるところによれば「受肉」とも呼びうるのであるが)への着目は促しても、復活への着目は促さない。
「ところで、我々が直接またもっぱら、救済者の人格に帰しうる彼の活動は、まず、彼の公の生涯の中に観察されるべきであり、しかも、この場合、他から明確に選り分けられるような、いくつかの行為がぬきんでているというわけではないのであるから、共同体を創設する活動と同一視される、彼の尊厳の真の顕現もまた、個々の瞬間においてではなく、彼の生涯の全過程のうちに存するのである」*37
「復活と昇天の事実及び審判のための再来の預言は彼の人格についての教えの正当な部分として取り上げられえない」*38
 それ故に、第一にピリピ書2章のような、キリストは従順ゆえに復活させられたというような(そしてそれ故にキリストは主であるという)モデルは排除され、第二にパネンベルクのような復活の歴史性を重視する神学にも適合しない。*39
 しかしその一方で、救済者の働きによって祝福される信仰者に特徴的な自己意識は「再生と聖化」(§106)であるといってまず第一に再生について語る*40。「(キリストの)復活と(キリスト者の)再生(ないし新生)」ではなく、「(キリストの)受肉と(キリスト者の)再生」という、伝統的教説から見れば一見奇妙な組み合わせがなぜ成立するかについてはまた別にシュライアーマッハーの救済論についての検討を要する*41のでここではこれ以上ふれず、両者を結ぶのが神意識であるということを指摘するにとどめておく。
 この節においては「神意識を持つものにおける神の内住」をGL本論によって考察したところ、キリストがその意識における相互作用の働きにおいて「普遍性」を持つことによって神の内住を得ていることを確認し、さらに霊的な働きによって創造性を持つことまで示した。それらはすべてイエス・キリストによって起こる。ではそのお方はどのようなお方か。このことについての考察が次章でなされる。
第二章 キリスト論
 第二章第一節  キリストの人格*42について
 キリストの人格が神性と人性によって成り立っているという伝統的な表現定式はシュライアーマッハーの神学の下では、前者は人間との相違及び神との同一性、後者は人間との同一性を言うことによって表現される。人間との相違は§98、神との同一性は§97、人間との同一性は§94で述べられる。従って、本節を「キリストの人性」と「キリストの神性」に分けて、第一項では主に§94を、第二項では§97と§98、それに両者の関係について論じる§96について考察するのがよいであろう。
  第二章第一節第一項   キリストの人性
「それゆえに救済者は人間の本性の同一性によってすべての人間に似ているが彼の神意識の常なるが故に他のすべてのものと区別され、その神意識は彼の内で真に神の存在である。」
という§94の命題は、この節の主題に照らして考察するとき、第一に救済者の人間との同一性が、第二に救済者の神意識の強力さがいわれていることに気がつく。そこで、この命題の構造に従ってシュライアーマッハーの§94の説明文を分析してみたい。
 救済者の人間との同一性については、「民衆性」Volkstuemlichkeitという彼の言葉をキータームにして考えるのがよいと思われる。この言葉が集中的に用いられるのは、§93命題(「新しい共同生活の発生(自己活動)がかの救済者からのものであり、彼からのみ生起するとすれば、史的存在としての彼は同時に原型的なものでもなければならない。つまりその理想的なものは彼の中で完全に歴史的なものにならなければならない。そして彼の経験の歴史的な契機はいずれも同時に彼の中で原型的なものを生む。」*43)において彼の育成の過程と神意識の保持との関係について論じている文脈においてである。
 シュライアーマッハーはこの§93の説明文において、救済者の神意識が生得的なものであるか、後天的なものであるかについて問題にし、それは生誕の段階で萌芽としてはあったとしても、完成は後天的なものであると主張する。神意識そのものを生誕の時に持っていたとか、あるいはいつまで経っても神意識は不完全なものであったとかいう考え方はここで排除される。前者は仮現論的異端であり、後者はナザレ派的異端である。特に後者については以下のように展開される。神意識の完成などはあり得ず、したがって救済者の感化を受ける共同生活者への影響も原型的Urbildlichというよりはむしろ模範的Vorbildlichなものにすぎないという考え方である*44。シュライアーマッハーがここで具体的に考えている救済者の感化とは、「救済者は、人間社会において発展しているすべての知識、あるいはすべての技術・技能に対しても原型的でなければならないというわけではなく、ただ問題となるのはあらゆる人生の瞬間に、衝撃をあたえ、またそれらを決定するための神意識の強力さのみ」*45なのである。従ってたとえば「活動性」とか、あるいはトレルチのように「並はずれた印象」*46が救済者に付される必然性はシュライアーマッハーにおいてはなく、「原型性」の概念が付されればそれでよいのである。
 ここには、普遍性と個別性を巡るシュライアーマッハーの神学の工夫の跡がある。原型性とは、あくまで個別(すなわち歴史上のイエス)にとどまりながら、その人格の影響が共時的かつ通時的であるような概念である。原型性の概念がこのような意味で成立するための条件は、「類的意識Gattungsbewusstsein」の措定である。「すべて内的なもの(論者注:ここでは特に感情のこと)は、強さ、成熟がある点に到達すると外的なものになり、外的なものとして他人に知覚し得ることになる」*47のであり、人々がこのような性質をもって互いに影響しあえるということ、さらにその前提としての、意識におけるいわば同種性ないし同類性も措定されるのである。
 もう一つ前提としなければならないことは、この類的意識には罪が含意されていないということである。罪とは第一章第一節で述べたように、神意識の曇りとしてシュライアーマッハーは叙述し、罪にいかなる意味でも(存在論的にも、また認識論的にも)実体性を与えない。「罪の意識」という言葉はあり得ないのである。「もし罪さえも人類の共同行為として設定されるとしたら、そのときは人類の共同生活から原型的な個人が出現する可能性などどうしてあり得ようか」*48と言って、シュライアーマッハーはマニ教的異端と自らが呼ぶものを回避するのである。
 このような、共同生活*49者(すなわちキリストの全体的生に組み入れられたもの)が有する類的意識と本質的な無罪性を前提とし、原型性は共同生活者に対して影響を持つ。このことを「生産性」Produktivitaetと表現するところにシュライアーマッハーの神学の特徴の一端があらわれる。「それというのも、およそ生産性とは、ただ原型の概念のうちにのみ存在して、模範の概念のうちには存在しないものであるからである」*50
 通常考えられ得ることは、従ってこのような生産性を有する原型性の概念は、超越的なものであり、むしろ模範性の概念の方が歴史のイエスに帰しうるのではないかということである。*51しかしシュライアーマッハーはそうは言わない。むしろ、
「発展の環境への依存性を否定しようとすれば、当然キリストに経験的全知を仮定しなければならなくなる」*52
といって、キリストの経験的全知を仮定する必要がないように(なぜならそれは彼にとって承認する必要のない奇跡的事項だから*53)、神意識のイエス内部における発展が、環境に依存するということを要請する。
 「救済者の人格の純然とした歴史性には次の事実も属している。すなわち、彼は自分の環境とのある類似性においてのみ、すなわち、概して民衆的に発展しえたということである」*54
とシュライアーマッハーがいったときの「民衆性」とは、従って共時的・通時的に共同生活者全体をくくることができる概念であり、全構成員によって共有されつつイエスによってのみはっきりと所有される概念である。*55そして民衆性を持ったイエスは本質的に罪から自由となる。しかしこれだけでは、なお民衆性と生産性との関連は明らかになっていない。
 このことは、
「民衆性は、けっして彼の自己活動の型ではなく、単に霊の自己活動に対する彼の受容性の型である」*56
ことと、先の類的意識に関する引用とを合わせて考えることによって初めてわかる。すなわち、霊の自己活動をキリストが自己内で受容し、絶対的で強力な神意識を持ち、その強さと成熟の度合いの故に生活共同体(すなわち教会)の構成員に(類的意識の前提のもとで)影響力を持つ。意識の次元で影響力を持つということは、シュライアーマッハーによれば創造的で生産性を持つということに他ならない(このことについて第一章第二節で少しふれた)*57
 以上の説明とは別の仕方による説明が、§97に見いだされる。この命題の説明を見ることで、私達は人としてのキリストがいかに生産性を持っているかについて理解すると同時に、人性と神性の一致がどのようにして考えられているかについても同時に見ることができよう。
 ここでは
§97命題「第二定理。神性が人性と結びつくとき神性はただ活動的で自己分与(告知)的であり、人性はただ受動的で受容の過程にあるが、結合状態においてはすべての活動性は両性の共通の活動性となる」
この§97において
「私達の第一命題さえも仮現論的とみなしうるかもしれない。つまりあたかもキリストにおける人性の真理性(論者注:存在しているということ)は、すでに私達がキリストの人格の原初において人性は同時に受動的であったと言った時点で、すでに失われている。というのも明らかにほかの人間の原初は、身体形成の力が生命機能の完全性のなかで人間存在の新しい統一性を自身で形成するという点で、積極的な部分を有しているからである。しかし、上掲の法則の助け、すなわち合一の行為はまた自己分与する神の本質及びそれによって摂られるところの人性の両方共通の活動であるとする法則、を借りるならば、事態は以下のようになろう。すなわち、人性は、確かに神(性)によって摂られている間は、摂取されることについて活動的になれない。従ってたとえばキリストにおける神存在が人性から発展したとかあるいは人性において神的なるものが引き下ろされて受容能力が存在するとかいうことはない。」*58
といわれている。これは、キリストの人間としての完全に受容的な態度がキリストの内において神の活動を十全に活動的にすることを保証するものであり、その受容的な態度はほかの人間に比すべくもないほどである、ということである。この場合、キリストの人性の受動性が神性の能動性と裏表になっていることになる。神性の能動性は創造の概念と結びつく(第一章第二節、§94)ので生産性と関係があることになる。
 以上の二つの説明の仕方は、第一のものが人性としてのキリストが受動的であるが故に「霊の自己活動の型」として機能することでキリストにおける霊(すなわち神意識)の強さを保証し、類的意識によって同一共同体内の構成員に分与されて生産性を持つというもの、第二のものが同じく受動的な人性が能動的な神性の活動を保証して生産性を持つというもので、いずれにしてもここにはキリストの内における神の活動が述べられている。この問題は次項「キリストの神性」で扱う。もう一つこの項で浮かび上がっている問題は「民衆性」の独自性の問題である。他の人間に比類なきまでに受動的であるという人性としてのキリストは、果たして「民衆的」であると言えるか、という問題であり、この問題については次節で述べる。
  第二章第一節第二項   キリストの神性
 以上の説明によって、人間としてのキリストの受動的側面が述べられた。これに対し、神としてのキリストは能動的であるということが、この項では述べられる。
「第一定理。イエス・キリストにおいて神性と人性は一つの人格のなかで結びついている。」
(§96命題)のであるが、
「第二定理。神性が人性と結びつくとき神性はただ活動的で自己分与(告知)的であり、人性はただ受動的で受容の過程にあるが、結合状態においてすべての活動性は両性の共通の活動性となる。」(§97命題)
ことが同時に言われる。活動性は、結合の後には神(性)*59のみならず人性についても当てはまる属性であるといわれるのである。*60それは、救済者にとって身体とは神意識の器*61にすぎず、人間としての活動も全て彼の内なる神存在に依存しているからである。しかし彼はアポリナリオスの異端に陥らないように論を進める。なぜなら、霊において神、身体において人というアポリナリオスの説では全的人間存在の救済はいえないからである。
「私たちの最初の命題(論者注:§97命題)であっても人性が受動的なのでキリストにおいて人性の実在性が喪失しており仮現論的に見えるかもしれないが、本質の自己分与活動を人性との共通の自己形成活動として考えることができるので問題ではない。人性は活動でも能力でもなく神との結合において生まれたものと考えられる」*62
 この人性は神性から独立しては語り得ない。§96の命題はあたかも独立してすでに人格をもっている神性と人性が、さらに人格において結びついているかのような印象を与えるが、そうではなく、神が受肉して人性を摂ったassumputioとき(結合)に初めて人格を持つのである。またそのことによって、属性の交流の教説を放棄する*63ことになる。交流とは、独立して活動的である二つの本性においてなされねばならないが、それはあり得ないのである。
 シュライアーマッハー自身による、この伝統的教説との折衝は、特に人性の非独立性をいうところに重点がある。私たちは、人性の叙述から始めなければならないにも関わらず、ここでイエスが神*64であるということを、そして位格統合が神から(上から)なされねばならないことをシュライアーマッハーの教説が要請することを確認した。
第二章第二節 ペルソナの議論の批判的考察
 私たちは前節において、「神意識」をキーワードにした、キリストの人性から叙述を始めるというシュライアーマッハーのキリスト論のスタイルを考察した。キリスト論を人性の叙述から始めるということの特徴を以下に挙げてみる。
 まず第一に、キリストの歴史的存在がはっきりするというメリットがある。神性からの叙述は神性が受肉する肉体の任意性を言って結局「ナザレのイエスが(受肉した)神でなければならない必然性はない」という結論に陥る危険性がある。これは仮現論的異端の一種といえよう。仮現論的異端は「ナザレのイエス」を主語としない異端の類型なのである。
 しかし第二に、ではシュライアーマッハーのスタイルの場合、「神がナザレのイエスに受肉する必然性はあるか」という問いを投げかけなければならない。ナザレ派の異端がキリスト論について「神」を主語としない異端の類型であるというならば、まさにその問いがここで投げかけられなければならないのである。
 結局その問題は、神としての活動性の元となる(生産力を持った)原型性が民衆性から生まれる、という、シュライアーマッハーの独特の議論をどう評価するか、ということにかかっている。論点は以下の三つである。
 第一に、民衆性が貫徹されることが完全な受容性をイエスの中に与えると言うが、民衆性はなぜイエスにおいてだけ貫徹されたといえるのか、そして民衆性はイエスにだけ独自な概念であるということがなぜ言えるのか、という問題である。
 それは彼の「原型」の理解についても、果たしてナザレのイエスから導出される概念なのか、それともシュライアーマッハーの独自の神学的前提によって設定された、それゆえ論点先取の虚偽を犯してはいないか、ということが問題となり、このことに関して、ティリッヒが
「『原像』(論者注、本論考における『原型』の謂)の語においては、人間的実存に対する真の人間性の理想主義的超越性が明瞭に表現されている…。原像は不動のまま実存の上に高くとどまっている」*65
と言って批判する。
 シュライアーマッハーの論理は透徹すれば結局「平凡さを徹底的に押し進めることは非凡なことである」というようなことが前提とされているように思える。だからティリッヒの批判に答えるなら、この「非凡なまでの平凡さ」を承認するかどうかということになろう。*66
 しかしさらに問題がある。彼は「原型性」の概念を「生産性」の概念と結びつけるのであるが、それは「模範性」では不十分だと言う。これが「受容性」の中身であるが、実際には「完全な受容には完全な能動」がイエスにおいてあったとしか言及していない。それならば、後者について「不完全な受容には不完全な能動が伴う」と考えて、「不完全ながら生産性を持つ」ということは果たして絶対に言えないのであろうか。
 このことをイエスの教団の創始者と仰ぐキリスト教の全宗教における特別の位置づけとして考えるのがGL序論の「弁証学副命題」(§11〜)である。歴史的宗教を比較した上で
「キリスト教団体だけが救済のみを目的として集合している目的論的一神教である」*67
とし、その団体における救済者はナザレのイエスなのだからイエスのみが完全であったということになる。しかしこれは明らかに教義学的には不十分な論証である。
 大きく譲って「神意識が完全だったのは歴史的に言ってイエスしかいなかった」と言ったとしたら、あるいは「完全なものはただ一つで十分である」ということが背後で意図されているとしたら、結局キリストの救済者としての排他的唯一性は言えないことになる。*68
 第二に、民衆性の徹底がイエスの人性にどのような意義を与えているか、という問題である。
 パネンベルクは、人間としてのイエスが人類の代表としての普遍性を持っていなければ、イエスの救済には意味がない、として『キリスト論要綱』の中では紙幅の3分の1を割いて論及している。パネンベルクは献身、運命への服従、高挙の三形態において地上のイエス像は分類可能とする。「第二のアダム」として、死を知ると同時に甦るということが人間との共通性である、という主張である。実際、第二部「神の前における人間イエス」の中では「職務」と「死」の概念を通じて人間としてのイエスの人類との共通性を論証しようとしている。しかし、「シュライエルマッハーの神意識の概念は具体的なイエス像との結びつきが希薄であるので欠陥を持つ」*69という指摘*70は、必ずしも正しくない。いみじくも彼が243ページ以下で用いている方法、すなわちイスラエルが律法を与えられていることに注目してそこから律法の普遍性を媒介項目とすることによってイエスの人間としての普遍性を指摘する方法は、シュライアーマッハーにおいて「民衆性」の概念がしていることとほぼ同じであるし、315ページ及び次ページの(「第三節 代理としてのイエスの死 1 イスラエルのための代理」)結論「イエスが負った死の刑罰は、律法の権威に束縛されている限り、全民族が受けるに値する刑罰なのである」についても、対応すると考えられる表現が§93-3でガラテヤ書4:4「律法のもとに生まれた」という聖句を借りた形で見いだされる。むしろここで注目すべきことは、シュライアーマッハーが「(律法のもとで)生まれた」と言っているのに対してパネンベルクが「(律法のもとで)死んだ」というように「生」と「死」の対比であろう。この点に関して、確かにシュライアーマッハーが死と、そして復活について大きな意義を認めて論及していないという点は認めざるを得ないであろう。*71
 シュライアーマッハーがこの人間イエスが人類の代表としての普遍性を有していたことを言及しようとしているのが「共同生活」であり「民衆性」の概念である。なぜなら、前述したように、共同生活とは、主にはキリストと共にある共同生活、すなわちキリスト教会のことであるが、決してそれ以前に共同生活がなかったわけではない(「罪の共同生活」というものがあった)。そしてシュライアーマッハーが、イエスもまたそのような一つの「共同生活」の中にいたのに、なぜその悪い影響を受けなかったのかについて論じているのが§93なのである。神意識が生誕の時に萌芽としてあったことを言って、一方で仮現論的異端を、他方でナザレ派の異端を排除したことについてはすでに述べた。そしてそのことがイエスに「民衆性」を与えた。「民衆性」とは「すでに悪化が進行していた共同生活の中へと入って行かねばならなかった」*72状況の中で、「闘争」Kampfや「美徳」Tugend*73とは無関係にキリストの持つ原型性によってキリストに付与されているのである。*74ここで「絶対依存感情」が他者を包括しまた受容する概念であったという序論の議論を承認すれば、民衆性が受容的であり、また「普遍的相互作用」を含意し、イエスを人類の代表の性格たらしめるのにふさわしい概念であるという結論を得る。しかしかような絶対依存感情を持つ人物が個人としてあり得るのか、という疑問は残る。*75
 第三に、人性の叙述から始めて、エンヒュポスタシス・アンヒュポスタシスを要請するに至った道筋を今一度確認すれば、民衆性を持った意識存在が自身を受動的性質と規定し、そのことによって神(的性質)を要請し、神(的性質)について考察したところそれを活動性として認め、人性を包括するというものであった。この際「受動性」と「能動性」という概念による議論の進め方には問題がないか。まず第一にキリストの人性には能動的な側面がないのか。たとえば、キリストは神(性)故にのみ人間を憐れまれたのか。第二にキリストの神(性)には受動的な側面、モルトマンなら「苦しみを受ける神」という言葉で表現するような側面が捨象されるのか。いずれにせよ、この問題は「属性の交流」の教理の放棄と関係があるだろう。第三に、「受動性」によってしか人性が規定されないのは、はたして人性を軽んじることにはならないか。もしこれが人性を軽んじることになるのであれば、皮肉にも汎神論に陥る可能性さえ否定できない。*76
 第三章 評価と展望
 ここまでシュライアーマッハーのキリスト論を考察し、第二章第二節第三項で述べた結論以外に、興味深いいくつかのテーマがあげられている。*77その一つが(同一著者の)歴史的・発展的研究方法であり、もう一つが感情に関する概念の検討*78であり、またこのキリスト論についても「人格」についての議論にも積み残しがあるばかりか、「業」の議論は言及さえしていない。しかし本章ではそれら以外に、第二章で考察した内容に即したテーマを三つ掲げ、発展した研究のために必要となるであろう事柄にふれることにする。
  第三章第一節 歴史性の問題
  シュライアーマッハーのキリスト論に見られる特徴の一つは、人性によって基礎づけられた歴史性にあるであろう。ここで彼がわざわざ「模範性」Vorbildlichkeitの概念を持ちだして、それと彼のいう「根源性」Urbildlichkeitとの違いを明らかにしていることに私達は注目しなければならない。このことと関連して、森田雄三郎氏が『キリスト教の近代性』第2章「神学的領域における歴史的個体性の発見」という題でシュライアーマッハーの解説をするときの視点に注目してみよう。
 彼はシュライアーマッハーの神学の歴史性を問題にして、第一にそれは信仰者の歴史性を捨象していない点で啓蒙主義的キリスト教よりも歴史性があることを指摘し、第二にその上で
「ただし、シュライエルマッハーはかかる歴史的キリスト教の歴史的本質をややともすれば宗教の普遍概念の元に包摂してしまうので、彼の歴史本質論は常に啓蒙主義の抽象的普遍概念の名残によって曇らされているとの印象は、免れない」(78ページ)
といって、彼の歴史性に限定を加えるのである*79。おそらく森田氏が私達と認識を異にするのは、森田氏は信仰者の個体性に注目はするが、キリストの個体性に全く言及せず、神意識がキリストを経由して信仰者に分与されるという視点が完全に欠落しているからである(同3節)。同4節では§13の命題の解説に関連してこのことに言及しているが、彼は§94に着目していないので
「キリストの人間性は現実的人間としての人間性であり、この人間性に「神的作用」としての啓示が働くところでは、啓示はまさしく人間の新しい現存在の可能性を示す歴史的啓示として成立する。このことこそ神的啓示としてのキリストの歴史的現象であり歴史的出来事であることを、」
とまでいっておきながら、
「シュライエルマッハーは不明瞭ながらも語ろうとしているのである」
となってしまうのである(85ページ)。またこのことと関連して
「結果的には、本質的にあるものに『なる』歴史的出来事としての信仰が、シュライエルマッハーでは十分に把握表現されなかった」
となってしまう。ここには神意識を持つ者が創造的存在であるという視点*80が欠けている(90ページ)。これに対して、私達はキリストの個体性にまず注目をする必要性を提唱する。そしてこのキリストとは、まず第一に人間イエスの実体性を問題にしているのだから、これは優れて歴史的といわなければならないだろう。
第三章第二節 救済論とキリスト論との関係
 本論考で、ここまでシュライアーマッハーのキリスト論が伝統的な教説(受肉論的あるいは「上から」)に対して認識論的契機(すなわち「下から」)にこだわる態度があることを示した。このことから、救済論とキリスト論との関係についての考察をしてみたい。まず第一には、シュライアーマッハーが救済論を展開する中で、キリスト論を救済論に完全に解消してしまった、という考え方であり、第二にキリスト論と救済論を並列的に扱うようになった、という考え方がある。このことは、シュライアーマッハーの神学がキリスト中心的*81と呼ぶに値するものであるかどうかという問題につながる。
 そしてさらにそれを発展すれば、シュライアーマッハー神学が「神中心」から「人間中心」への転換を図った、という評価*82と、そうではなく「神中心」から「神と人間の二つの焦点を中心」*83を目論んだいう考え方とに別れることになる。そして、後者の理解を取ることが、シュライアーマッハーを正しく理解したことになるのではないかと思う。
 このことは『信仰論』の中で具体的にいえば
・キリストの人格と業の分離
・シュライアーマッハーが挙げる4つの異端が人間論とキリスト論に分けられること
・説教者が教理的に正しいだけでなく時代に適合したことばで語らなければならないこと
 等によって示される。このことは、西方教会が「私たちのために」pro nobisという救済論的契機を常に重んじていたことと関係するであろう。「のみ」を重んじるという宗教改革のモットーは、啓示や救済の出所が単一であることを意味するだけで、世界や人間への関心を切り捨てたわけではないと考えれば、ひとが「神学の改革者」*84といったり「近代神学の再生者」*85と呼ぶシュライアーマッハーへの称号には格別の意味があることになる。*86
  第三章第三節 聖霊の神学*87の可能性
「わたしは警告する!わたしが全く馬鹿げたことを夢見たのではないとすれば、第三条項の神学を企て、展開するためには、ただ霊的に精神的にきわめてしっかりした基礎を持つ人々、本当に『学識のあるテーベ人』[他人より優れた学識があると思いこんでいる人を呼ぶ慣用句]だけが有用であろう。自分はそれではない、少なくともまだそれではないような人々は、大胆に、千年王国の一つの可能性を実現しようとする代わりに、なおしばらく、わたしとともに意識的に、この『困惑』の中に耐えてとどまることを選ぶべきであろう。」*88
 シュライアーマッハーの神学を行うことは、常に「聖霊の神学」に対する誘惑と接することになる。バルトはそれを「困惑」と呼んだ。ここではあえてその「困惑」に踏み込み、後世の研究者から「学識あるテーベ人」といわれかねない愚を犯してみたいと思う。そのためにこの節は、シュライアーマッハーの神学から導き出される聖霊の神学の「危険性」と「可能性」について述べる。
第三章第三節第一項 危険性
 まずテキスト上の問題として、シュライアーマッハーがたとえば「霊的実」「霊的機能」(geistige Funktion§94-2)「霊的生命」「霊的受胎」「霊的根源性」(- Leben, Befruchtung,Urspruenglichkeit§94-3)と言ったときにそれがすぐさま聖霊と関係あるかどうかは判断できないということが即断の危険性としてあげられる。*89
 また、内容的にいって、シュライアーマッハーの神学で聖霊の働きを強調すると、キリストの位置づけが容易に曖昧になる可能性があり、その点で本論考で行ったようなキリスト論を強調しておく必要があるであろう。
第三章第三節第二項 可能性
 しかしその一方で、以下のような可能性があるといえよう。まず第一に、聖霊の働きを考えると経綸的三一論が明確になる。「創造者なる神」についていえば、シュライアーマッハーが
「最初のアダムにおいて起こった霊の人間性質への伝達は不十分で、霊が感性に埋没し、一瞬よりよいものとして姿を現し、創造の業は第二の同様に根元的な(第二のアダムの)伝達によって全うされた。しかし両契機は一つの分かち得ない永遠の神の聖意志に帰せられ、より高次の、我々には達しがたくとも同一の本性的連関をなす」*90
と述べたとき、「霊」が「聖霊」であると読めば、創造の業は聖霊によってなされたことになる。また、「救済者なる神」についていえば、イエスに神を内住させているのは聖霊によるのであるから、御子と御霊との関係が密接になる。*91
 このように、ここではバルトが、さかのぼればアウグスティヌスが、いう「父と子との間の平和の絆」Vinclum pacis inter Patrem et Filium、すなわち聖霊がなす働きについての注目がシュライアーマッハーから出てくる可能性は十分ある。*92*93
 これに似たタイプの聖霊-キリスト論を展開するのがモルトマンである。
「父は子において苦しまれた。しかも私達が解釈して付け加えるように、聖霊による子における神の内住によって苦しまれた。」*94
また、これと異なる聖霊論を展開するタイプとして現代オランダの「相対的に独立した聖霊論」を展開する、たとえばリューラー*95などをあげることが出来よう。
 第二に、第二章第三節第三項で取り上げた「イエスは唯一の救済者か」という問題の解決のために聖霊への注目が有用であると考えられる。
 イエスが唯一の救済者かどうかという問題が認識論的にとらえられている点がシュトラウスのいう「逆推理」のジレンマである。これに対して、受肉論的に考える(「逆推理」に対する「正攻法の推理」とでも呼べるであろうか)時には「神の選び」として考えられる。*96シュライアーマッハーはキリストをキリストたらしめるのが聖霊による(神の)選びであることをほんのわずかだけ示している。*97
「教会の起源は選びと聖霊の告知という二つの教理を通じて明らかになる。」*98
「両者(論者注:選びと聖霊)共に、新しい生の活動的力がキリストのみにしか伝達されていないところにおいては直接的には適合しない。キリストが選ばれ聖霊を所有しているということがキリストについて当てはまるという意味であっても。」*99
 第三に、「父と子との間の平和の絆」はまた同時に「神と私たち」とをも結びつけるであろう。前節で挙げた、シュライアーマッハー神学の特徴である「二つの点」を、正しくつなぎ止めてどちらかを失わなくする絆がここでは必要なのであり、「神と私達との間の平和の絆」Vinclum pacis inter Deum et nosが要請されるのである。
(参考文献)
 一次資料(書名、(訳者名、)発行地、発行年。)
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The Christian Faith, trans. and ed. by H.R.Mackintosh and J.S.Sttewart,Edinburgh,1928.*1999 1st paperback edition, foreword put by B.A.Gerrish
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キリスト教信仰(『現代キリスト教思想叢書』1所収)、今井晋訳、白水社、1974年。*抄訳。本論考中の引用は全て私訳だが、時にこれを参照した
信仰論、高橋英夫訳、筑摩書房、1991年。*筑摩書房「世界文学大系」にもと所収されたものの改訂版で、これはDeutsch Bibliothekに所収された初版(1799年)を底本としている
 二次資料(著者名、書名、(訳者名、)発行者・発行地、発行年。)
(翻訳であっても実際に使ったものを掲げた。論文なども発表年ではなく、発行年で表記した)
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・シュライアーマッハー以外についても論じているもの
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上田光正、カール・バルトの人間論、教団出版局、1977年。

*1正統的信仰は異端との区別によって決定される。GL命題番号21(以下、§21と表記)の命題は「信仰論の体系を作成するためには、教義学的資料の総体から、まずいっさいの異端的なものを排除し、教会的なものだけを保持せねばならない」となっている。
*2「教義学的神学はキリスト教会において、与えられた時代に妥当する教理の体系についての学問である」(§19命題)。また「神学者は詩人のように自由であらねばならない」(§97説明文第四項。以下、§97-4のように表記)ともいっている。伝統的な教説が実体的・客体的な真理概念を前提に神学を展開していたのに対して、ここでは認識論的契機を重んじていることがわかる。
*3「異端の神学は美しい」とティーリケは言う。シュライアーマッハーは啓蒙主義によって色づけられた正統主義的(ないし信条主義的)教説の展開には賛同しなかった。だからといって即座に彼が異端であるとはならない。正統主義的ではなくとも正統的と呼べることは十分あり得るのである。この問題について、シュライアーマッハーは§22で4つの異端をあげている。そして「キリストのみによる救済」を擁護しこの4つを回避すれば正統的であると考えているのである。その4つとは、人間観に関する異端二つ(マニ教的…救済はあり得ない存在、ペラギウス的…自力救済が可能な存在)と、キリスト観に関する異端二つ(仮現論的…キリストと人間の差異は絶対的、ナザレ派的あるいはエビオン派的…キリストと人間の差異は完全に解消)なのであるが、その叙述の順番にしても、中心的な関心は「キリスト」にあるというよりは「救済」にあると言える(ただし命題では後者が先である)。このことがのちにも述べるように、救済論の枠組みの中でキリスト論を展開するというシュライアーマッハーの信仰論の展開を特徴づけている。
*4§30では信仰論が叙述すべきこととして「人間論」「神論」「世界論」(順番ママ)があるという。
*5「神論」はGL本論(§32以降)において§50以下、すなわち創造と保持の教説の次におかれており、比較的伝統的な教説と似た位置を占めている。また、三一論は§170以下。しかし、もっと注目すべきことには、本論考で後述するように、彼のキリスト論(それは人間論の枠組みの中にあるということをすでに指摘した)において聖霊の神学と出会う可能性があり、彼のやり方で人間論から入っても三一論(もっともそれは経綸的三一論のみにすぎないのであるが)への言及がなされうることがわかる。
*6GL本論でキリスト論が展開されているのは「神の恩寵の意識としてのキリスト者の状態」においてであり、このことがすでに人間論、さらには人間を救う救済論の枠組みの中でキリスト論を展開するというシュライアーマッハーの姿勢をはっきり示している。
*7序論(§1から§31まで)において人間が持つものとして叙述されて書かれていた「絶対依存感情」すなわち「直接自己意識」は本論文が中心的に考察する§93以降では登場しない。このことは序論と本論との思想的差異として挙げられ得ることである。それ以外にも序論は他宗教と比較しながらキリスト教を論じるスタイルを取っているのに対して本論は教義学を念頭に置きつつ自分の主張する信仰論を論じているなど、スタイル及び用語法に関して両者には差異があることは否めない。
 序論と本論の差異、第一版(1821/22年)と第二版(1830/31年)の差異、『宗教論』(第一版1799年、第二版1806年、第三版1821年)と『信仰論』の差異とつきあわせて考えると、シュライアーマッハーの思想の変遷はかなりめまぐるしい。この点に関して、我が国におけるシュライアーマッハー研究は『宗教論』の線でシュライアーマッハーを理解する傾向が強く、そのことが彼を「ロマン主義者」といった程度の理解に落ち着かせている理由として考えられる。それゆえにシュライアーマッハーの思想の変遷を理解する、歴史的・発展的研究の採用がシュライアーマッハーを正統的立場から論じるのに肝要であるといえる。本論文ではしかしこの問題には立ち入らず、第二版全体を統一的・共時的に理解することにする。
*8今井訳が「救贖者」、Mackintoshがそれと相当する英単語である"Redeemer"を用いている。これらは客体的な罪の除去がされているというニュアンスを持つが、シュライアーマッハーの信仰論では罪が神意識の曇りであり、救済とは神意識を曇らせるものの解放を意味するのであるから、「解放者」"Liberator(engl.)"という訳語を当てるほうが原意に近いとも考えられるが、シュライアーマッハーが伝統的な教説の言葉を用いて自分の神学を展開していることを慮り、「解放者」の意味をも含有しているものとして「救済者」の訳語を当てた。
*9(D)er Ausdruck unseres Satzes der einzig angemessene, indem Christo ein schlechthin kraeftiges Gottesbewusstsein zuschreiben, und ihm ein Sein Gottes in ihm beilegen, ganz eines und dasselbe ist.
*10「他者」というのは神にとっての他者、つまりなんらかの存在のことを指す。
*11So dass er der einzige urspruengliche Ort dafuer ist, und allein der andere, in welchem es ein eigentliches Sein Gottes gibt, sofern wir naemlich das Gottesbewusstsein in seinem Selbstbewusstsein als stetig und ausschliesslich jeden Moment bestimmend, folglich auch diese vollkommne Einwohnung des hoechsten Wesens als sein eigentuemliches Wesen und sein innerstes Selbst setzen.(§94-2)
*12それゆえMackintoshはこの罪概念に「法」という新約聖書の概念が入る余地がないといって批判する。"Types of modern theology",p96。
*13「私達は神意識の復活が完全に不可能になったと考える必要はない」(§11-2)
*14Gesamtlebenは「全体的生(命)」とも訳しうる。「神意識を回復することさえできればキリストは必要なくなるのではないか」などという無用の誤解をさけるためにはこの方が良いとも思う。単語のニュアンスからすれば「キリストの生そのものへの参画」というような意味にもとれる。たとえば、『カール・バルト著作集』第四巻(神学史論文集)所収の「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」の中で、この単語を訳者である吉永正義氏は「全体的生」と訳することによって、キリスト教会を構成する信徒の参画度が強調されている(162ページなど)。
 以下のテキストを参照されたい。「共同生活はすなわち全く救済された個人からによってのみ成り立っているのであるが、それが世界(この世)において意味をなすのはその組織を通じてである」(§90-1)
*15§6命題「敬虔なる自己意識の共有は他の人間的本質と同じく共有され、教会となる」は序論の側からこの問題を叙述している、重要な命題である。ここでは二つのことを述べたい。
 まず第一に、このGL序論においては一般的に敬虔団体(従って他の宗教団体も含まれる。また家族もその一つとなる。§5-4)全体の共通の性格として、一つの団体において、ある意識を共有する、という。これは序論が宗教哲学的叙述であるためで、GL本論で「共同生活」という場合には、むしろキリスト教会固有のものが想定されている。
 より重要な指摘が以下の第二点である。それは、§6では「類的意識」Gattungsbewusstsein(今井訳の「種族意識」は生物学的なニュアンスが出てしまい、不適当である)が措定されていることである。表現者(たとえば教祖など)の精神状態の表象が他者(すなわち信者)にはつらつとした模写となって、良心の下に多様な感情団体が存在しまた創設されるのを承認することを可能にする(§6-2)のがこのGL序論において用いられる「類的意識」の概念である(§93-2でもこの用語を見いだすことが出来る)。
 「共同生活」はGL本論においてほぼ「類的意識」と同じ使われ方をされるが、それはキリスト以前にも用いられるからであり、従って「罪の共同生活」(das Gesamtleben der Suende,§87命題)といった用法もあるのだが、同時に「類的意識」と後述の「民衆性」Volstuemlichkeitとの間にも親近性があるのである。
*16キリストの強力な神意識を共有するのに場所が必要であるという理由により、序論でも本論でも比較的早い段階で「教会」概念についての記述がなされる。このことは、シュライアーマッハーの神学の特徴である。
*17§11および§94において用いられる。
*18「キリスト教は敬虔の目的論的方向に属する唯一神教的信仰方法であって、さらにこの信仰方法においては、いっさいがナザレのイエスによって成就された救済に関係づけられているという点で、ほかの唯一神教的信仰方法とは本質的に区別される」(§11命題)。ここに見られる「目的論的」(これはイスラム教に審美的なところがあるというのとの比較。実際にはキリストの存在が救済という目的と密接に関連しているとの謂)「唯一神教的」(多神教ないし自然宗教との比較)といった宗教哲学的な言葉遣いは、本論では見られない。
*19「仮現論的異端」とともに§22に登場する。後述。
*20§3-3
*21A.McGrathは"The Making Modern German Christology"の中でシュライアーマッハーが影響を受けたとされるロマン派がこの「感情」概念に注目した理由として、以下のようなものを考えた。それは、啓蒙主義時代の「知性」への偏りが、スピノザのように個体の軽視を生み、それに対して「個人それぞれが有しているが共通のもの」でもあるものとして「感情」に着目したというのである。スピノザを修正しようという意図がシュライアーマッハーにあったのではないかという推測は他に佐藤敏夫氏なども行っている(『近代の神学』40ページ)。スピノザが個体概念を軽視しているといわれるのは彼の神概念によるものであろう。スピノザ『エチカ』邦訳86及び90ページ参照。
 以上の観点から逆に、スピノザ『エチカ』の第三部「感情の起源と本性について」を読み直すと、スピノザの感情概念との乖離(スピノザは感情を能動性で解釈する)がわかる。邦訳186ページ。
*22カント『実践理性批判』(邦訳)249ページ以下。なお、この示唆はすでに『純粋理性批判』の最後の部分においても見いだされる。
*23ここでは「自然」Naturと「世界」Welt(あるいは「時間的存在」zeitlichen Sein)とが同じ意味で使われている。
*24これは「感覚的自己意識」の段階である。自由感情と依存感情との無自覚な混交状態を第一段階、両者の対立した併存状態を第二段階、その対立が高次に止揚された絶対依存感情を第三段階としてシュライアーマッハーは記述している。
*25§4-3
*26「無限者(について、論者注)の直接的な意識がとりもなおさず第二版における感情なのであって、従ってそれ(絶対依存感情、論者注)は第一版におけるような複数の感情(die Gefuehle)ではなく、単数の感情(das Gefuehl)であるといってもよいであろう」佐藤、前掲書、44ページ
*27それ故に、この神は感性によって知覚可能な被造物一般との相互作用によって対立をすることはない。この宗教哲学的な記述がいかにしてイエスに結びつくか、ということは本論考で洞察すべき課題の一つである。
*28ここにシュライアーマッハーの神学を「下からの神学」とさせしめる、認識論優先の契機がある。しかし、後述するように、神(的本性)による位格統合を意味するエンヒュポスタシス・アンヒュポスタシスはいずれも是認される。
*29§94-2
 今井訳ではAllgegenwartを「偏在」と訳しているが、これは誤植ないし誤りであろう。
*30§5-1
*31§94-2
*32§94-2
*33§93-4
*34§93-4
*35§93-3
*36すなわち闘争。これから完全に自由であることによって彼は第二章第二節で扱う「原型性」を保っていた。
「この霊的な力の充実は、我々が美徳と名付けるあらゆるものから遠ざかっている」(§93-4)
と言明することで、神意識が単なるイエスの道徳的模倣のようなものに堕してしまうことを避けている。
*37§93-1
*38§98命題
*39もっとも、このことは決してシュライアーマッハーがキリストの復活を信じていなかったことは示さない。むしろその逆である。それならばなぜこのような表現をとるのか。一つの可能性は、「多様な表現はあっても(他の感情から区別されて)敬虔に共通なのは、つまり敬虔の変わらない本質は、以下のものである。すなわち、私たちが自身を絶対的に依存するものとして、あるいは自身を神との関係の中で意識することである。」という§4の命題の意図を「全神学の総合」というところに見いだす道筋である。さまざまなキリスト教信仰をいわば「現象」(Barth,"From Rousseau to Ritchl",p.323)として考察したときに、「信仰者の敬虔」は全神学に共通である、としてこれを軸に『信仰論』の名の下に様々な神学を包括したという可能性である。この際に彼は「復活」を捨象した、ということになる。そして同時に彼は当時の非キリスト教的啓蒙主義者に対するキリスト教の弁証も行わなければならなかった。その二つのモチーフが彼を「復活の神学」から遠ざけたのかもしれない。
*40救済Erloesungと贖罪Versoehnung(邦訳ママ、むしろ和解などとすべきか)とが区別された上で前者に優先的な位置づけが与えられるというシュライアーマッハーの救済論の特徴を指摘しているのはアウレン『勝利者キリスト』である。邦訳160及び次ページ。アウレンの枠組みに乗っかっていえば救済の核心にはキリストの受肉があり、和解ないし贖罪の最初が「再生」ということになる。
*41アウレンはエイレナイオスを「第二世紀のシュライエルマッハー」と呼ぶ(『勝利者キリスト』23ページ)。彼が唱える直接の理由は別として、キリストの受肉を中心に構築した救済論(キリストと合一化する再統合ないし再生)を語る点においても、両者の共通性を見いだすことが出来よう。『異端反論』3・18・1、3・23・1、5・1・1〜3など。
*42本論考では、キリスト論を扱う際、ペルソナの議論は本節で扱っているが、伝統的教説の区分に従っていうところのキリストの業についての議論を扱っていない。これは、業の議論がもっぱら救済論に関わるからであり、本論考はそういう意味でキリストの人格について限定的に論じようとしている。しかしこのテーマが(特にシュライアーマッハーの場合)救済論と深く関わることは、本論考全体を通してみれば明らかである。
*43Soll die Selbsttaetigkeit des neuen Gesamtlebens urspruenglich in dem Erloeser sein und von ihm allein ausgehen: so musste er als geschichtliches Einzelwesen zugleich urbildlich sein, d.h. das Urbildliche musste in ihm vollkommen geschichtlich werden, und jeder geschichtliche Moment desselben zugleich das Urbildliche in sich tragen.
*44このことに関して、Richard R. Niebuhrが「原型性と模範性は不可分で、原型性によって彼は救済者たりえ、模範性によって救済を分与できる」"Schleiermacher on Christ and Religion"p.226と言っているが、模範性に対するこのように積極的な表現はGLの中では見いだしにくい。これと同じことがA.McGrath"The Making of Modern German Christology", pp.44-45にも言える。たしかに§100(キリストのペルソナとわざとの関連)は内容的に両者の主張に当たることを言ってはいても、シュライアーマッハーはここで"Vorbildlichkeit"という言葉を用いてその思想を展開していない。
*45§93-2
*46『信仰論』邦訳113、116、125ページなど。これがシュライアーマッハーのいう「活動性」のようなもので考えられているかといえばそうとは言えないかもしれない。
*47§6-2
*48§93-3
*49「私達はキリスト者の生活の中で新しい神によって起こされた共同生活の中で基礎づけられたものとして祝福を意識する状態に近づき、その共同生活は罪の共同生活とそこにおいて惹起される不幸に対向する」(§87命題)において明らかなように、共同生活とは必ずしもキリストによってのみ可能なものではなく、人間社会一般において可能なものである。
*50§93-2
*51S.Faut"Die Christologie seit Schleiermacher" S.43
*52§93-3
*53これはヨハネ福音書の描くイエス像とは異なるかもしれない。1:48,2:25など。
*54§93-3
*55それ故、たとえばTrivialitaet(通俗性)といった単語が用いられてもよいと考えられる。しかし、Volksmuetlichkeitはそのような意味(一般に「大衆性」とも訳されうる)を持ちつつ、国民や民族Volksの概念とも切り離されない。Mackintoshのように`racial`と訳すのがよいかどうかは意見が分かれるだろう。
*56§93-4
*57「民衆性」という用語はキリストに独自のものとして用いられているが、「類的意識」はキリスト教独自のものとしても、キリストのみが惹起しうるものとしても用いられていない(§6命題「敬虔なる自己意識の共有は他の人間的本質と同じく共有され、教会となる」)。しかし、両概念とも生育環境やその受容の仕方を表すものであることから、「民衆性」をも感情概念と何らかの意味で親近性を持つ概念の一種と見なして差し支えないであろう。(生育)環境を受容することが感情概念としてとらえられているのである。
 内容としては「民衆性」がキリスト独自の概念として考えられているのに対して「類的意識」が宗教一般の敬虔概念として規定される。これに対して、「共同生活」は§89,§92などで「新しい共同生活」というように形容することによって、「共同生活」という言葉自体は一般概念として考えているようにも見える。
*58 Man koennte freilich auch unsern ersten Satz noch doketisch finden, als ob naemlich die Wahrheit der menschlichen Natur in Christo auch dadurch schon verlorenginge, dass in der Entstehung der Person Christi die menschliche Natur sollte ganz leidend gewesen sein, da sie doch in der Entstehung jeder anderen menshlichen Person offenbar die Taetigkeit ausuebt, dass ihre leibbildende Kraft sich zu einer neuen Einheit menschlichen Daseins in der Vollstaendigkeit aller Lebensverrichtungen gestaltet. Allein, wenn wir den oben aufgestellten Kanon zu Huelfe nehmen, zufolge dessen zugleich auch der Akt der Vereinigung eine gemeinschaftliche Taetigkeit beider,des sich mitteilenden goettlichen Wesens und der zum Aufgenommenwerden von dieser bestimmten menschlichen Natur muss gewesen sein : so stellt sich die Sache so, dass die menschliche Natur allerdings dazu nicht habe taetig sein koennen, von der goettlichen aufgenommen zu werden, so dass etwa das Sein Gottes in Christo sich aus der menschlichen Natur entwickelt habe oder auch nur so, dass in der menschlichen Natur ein Vermoegen gewesen sei, das Goettliche zu sich herabzuziehen ;...(§97-2)
*59伝統的な教説における「神性」goettliche Naturの「性」は§97でその用法への疑義が示される。二つの性質が合体して一つの人格となったという理解を否定するために、「性質」という言葉を、特に神について用いることを避けたいと主張する(§96-1)。
*60§97-2において伝統的なキリスト論についての信条(カルケドン定式)への批判があり、そこでは両意論ないし両知論とでもいうような、神(性)と人性の両方に意志ないし知性があるという説は否定される。では両性がそれぞれ持っている概念はなにか、ということになって「活動性」と「受動性」(ないし「受容性」)の概念を割り当てようと考える。
 このことがもしも敬虔概念に関するGL序論の議論と連続性があるなら、「活動性」と「受動性」がそれぞれ感情概念として考えられていることになる。知性でも意志でも感情でもない第四の概念をここで考えているのではあるまい。いずれにせよこれらの概念はキリストのペルソナが何によって認識されうるか、という重要な議論なので今後の研究の課題となり得よう。
*61しかしどのような「器」であってもよいとは言わない。
「この表現形態は、…ヨハネの『言葉は肉となった』に依存している。というのも『言葉』は意識形態で表現される神の活動であり、『肉』とは器官に関する一般的表現だからである」(§96-3 )
とは、御言が受肉する具体的な「肉」すなわち「器」、言い換えればナザレのイエスが考えられねばならないことを意味する。
*62§97-2
*63§97-5。しかし放棄を明言しているが、それは知性など例を挙げて属性の交流に制限を加えているのであって、神性から人性への活動性の一致(§97命題)は属性交流の尊厳の類を肯定しているとも考えられる。
*64しかしここで「御子なる神」というような、三一論を想起させる表現をシュライアーマッハーは用いない。それは、御子なる神という表現では仮現論的異端に陥る可能性があるからだという。三一論には消極的な意義しかないと論じるのは§96-2である。このことに関してThielickeが「シュライアーマッハーの見解は二つの性質(論者注:神性と人性)に関しての存在論的な議論とは別のものであり、また内在的三一論の思弁を包含していない」(p.227)と指摘する。
*65『組織神学』第二巻、谷口訳191ページ。
*66その際、この概念が「人間学的」であるというティリッヒの批判(谷口訳191ページ)はほとんど問題にならないだろう。
*67§11命題
*68このジレンマをシュトラウスは「逆推理」として非難する。以下の引用は『イエスの生涯』(岩波訳)第144節からである。
「ソクラテスのような人物を、このようにして、越えられないような人物として描くことは難しくないかもしれない。」(599ページ)
「単に結果としてのキリスト者の内的経験から、原因としてのキリストの人格への逆推理にシュライエルマッハーのキリスト論が基づくには根拠薄弱である。」(600ページ)
 この論考を執筆するに当たって目を通した文献の中で、この19世紀の神学者以上に鋭い批判をシュライアーマッハーに向けた文章は見いだせなかった。
*69パネンベルク239ページ(麻生・池永訳、以下同じ)
*70芳賀力はバルトを引いて「啓示の内容と啓示者の人格との一体性」こそがエビオン主義と仮現論の両方から一線を画する要件であることを強調する(『啓示、象徴そして物語』400ページ)。だから、パネンベルクの批判はもし正当ならシュライアーマッハーの救済論には致命的なのである。
*71「…そのキリスト論が教会的諸規定にとって、少なくとも気持ちのよい代用品…を提供しうる場合には、復活と昇天との事実は本質的にキリスト教の信仰に属するのではないという主張になってきわめて際だってあらわれてくる。」(シュトラウス、599ページ)
 熊野はシュライアーマッハーをこの点においてもロマン主義の影響で解釈しようとするかもしれない。「かような立場を、我々は汎神論と呼ぶよりも、むしろ汎生命主義と名付ける方が適切であるとさえ思う」(熊野義孝「現代の神学」『著作集第十一巻』153ページ)
*72§94-1
*73「美徳」が「原型性」より「模範性」に属する概念であるからここで否定するのはわかるとしても、なぜ「闘争」もが否定されるのか。それは、闘争には能動的な側面があり、これでは「感性的自己意識」によって規定されることになってしまうからである。
*74本来ならここでイエスが歴史的にユダヤ教出身であったことをどうシュライアーマッハーが理解しているかについても考察しなければならない。しかし§12命題「キリスト教は確かにユダヤ教と特殊な歴史的関係にはあるが、しかしキリスト教の歴史的存在とその目的に関する限り、キリスト教のユダヤ教に対する関係と異教に対する関係とは同一である。」などはあまり参考にならない。序論においてユダヤ教とは理念的なものから歴史的に堕落した形態と見た上での叙述だからである。
*75「我々は原像を普通は決してその個々の現れにおいてではなく、ただ相互に補足しあうようなものの領域全体の中でのみ実現されると見る…」(シュトラウス、597ページ)
 同様の記述がゲーリッシュ『シュライエルマッハー』邦訳77ページにある。
*76ペルソナの議論における人性の軽視は汎神論に陥る可能性があるとして、救済論においてはそれがどう反映するであろうか。人性が救済において果たす役割として、人間に救済を提供するための「場所」となるという考え方と、人間に神意識を共有させるための「媒介」となるという考え方とは、厳密に言えば区別される。R.R.Niebuhrは`Christo-morphic`という概念によって後者の立場をとった("Schleiermacher on Christ and Religion"pp.210ff.)。しかしシュライアーマッハーのいうところの「仮現論的異端」は同時に救済の「場所」の否定をも含意し、それゆえ「共同生活」の共同体性を否定する。だから`Christo-centric`という概念は保持し続けねばならないだろう。
*77本論考で明言していないが重要な問題の一つにシュライアーマッハーの「言葉への関心」をあげることが出来よう。ブルンナーは彼を「神秘主義者」と論難した("Die Mystik und das Wort")が、シュライアーマッハーもまた言葉を重んじた神学者であり、そして説教者であったと思う。
*78共同生活、類的意識、民衆性、キリストのペルソナのそれぞれについての感情概念との近接性を指摘している。また、絶対依存感情ないし神意識が単に心理学的要素にとどまらず、「霊の受容の型」として表現されていることにも注目した。
*79このことは、同氏がシュライアーマッハーの宗教概念を「思弁的」と呼び、それがブルトマンの「先理解」やアルトハウスの「原啓示」に対応するような反省であると76ページでいっていることからも明らかである。この理解に真っ向から対立するのがゲーリッシュである。『シュライエルマッハー』邦訳24ページ。
*80シュライアーマッハーと同時代の哲学との折衝を問題にする研究も一通りなされているが、この論考では取り扱わなかった。特に、意識と存在とを同一化する永遠のイデアがあるとする「同一性の哲学」との関係に関して、RGG第二版でWobberminはシュライアーマッハー自身が"Diatektik"で記述が動揺していると言う。
*81たとえばA.McGrathがそう言う。Making modern German Christology,p.49.
*82たとえば熊野「キリスト教の本質」(『著作集』第六巻315ページ)。また、ペールマンはバルトを含む弁証法神学のキリスト論がキリストの中心的意味を提唱することによって信仰の生の価値についてといった新プロテスタンティズムの重要な問題提供を捨象してしまったと非難する。『現代教義学総説』238ページ及び次ページ。この問題提起そのものには耳を傾けつつ、後述するように少なくともバルトをこの批判の中に入れることには異を唱えたい。
*83論者はこの考え方をゲーリッシュから得た。ゲーリッシュ『シュライエルマッハー』邦訳7ページ及び27ページ。このこと故にシュライアーマッハーが弁証学に関心を持ったと論じるのがバルトである。Barth,"From Rousseau to Ritschl"p.321et al.
*84白水社現代キリスト教叢書1、今井晋による解説、423ページ。
*85`regenerator of modern theology`,"A prince of the church"p.19(邦訳44ページ)
*86「神を認識することと、われわれ自身を認識すること」というカルヴァンの言葉をここで思い出すことも出来よう。『キリスト教綱要』I,1-1(渡辺訳)
*87本論考ではGLにおける「聖霊の神学」の可能性を取り扱うのがよいと思ったので、本文の中では『宗教論』における同種の関心について言及しなかったが、同書第五講304ページ(高橋訳239ページ)ではキリストは自分の絶対性を主張する代わりに聖霊を指し示し、みずからの(唯一の)根本直観を放棄するとともに聖書の正典性の放棄もしていたと指摘する。このいささか寛容すぎる主張は確かに「仲保者自身は、改めてまた別の仲保が必要なのではない」(高橋訳237ページ)といいつつも「自分がただ一人の仲保者であるとは、決して主張しなかった」(同239ページ)というのであるから、少なくとも『宗教論』においてはキリストの、またキリスト教の唯一性は主張し得ないということになる。聖霊はここで「実践的に神に近づくための倫理的仲保者」(同240ページ)としての役割が付与されている。
*88「シュライエルマッハーとわたし」(『神学者カール・バルト』J.ファングマイアー著138ページ)。この文章自体はバルトのもの。
*89「神の霊と人の霊についても混乱なくして併置し得ない」(§96-1)
*90§94-3(強調はシュライアーマッハー)
*91filioque のほかに spirituqueをいうことになる。
*92このことと、三一論の取り扱いについて積極的ではない§96-2(あるいは§170以降)との整合性に今後の研究課題を見いだせよう。
*93一方で、『信仰論』の方ではイエスと聖霊とは分離して考えられている。*87参照。
*94モルトマン『いのちの御霊』邦訳109ページ。傍点ママ
*95A.A.van Ruler,Calvinist Trinitarianism and Theocentric Politics,pp.59ff.
*96このことに関しての理解は上田光正『カール・バルトの人間論』(36ページ以下)から得た。
*97シュライアーマッハーが「予定」の問題について論じているのは§82〜§84、§116〜§120である。いずれもキリスト論を主題とした場所ではない。
*98§116命題
*99Beide aber haben das miteinander gemein, dass sie urspruenglich nicht unmittelbar auf denjenigen Zustand passen, wo die wirksame Kraft des neuen Lebens noch unmitgeteilt in Christo gesagt werden kann, er sei erwaehlt und habe den Heiligen Geist;(§116-1)