「日本的信仰者」としての内村鑑三を巡って
問題の所在 日本的なるものとは何か
日経新聞は「不況下で小泉人気が続くのはなぜか」という題名のもとに、社説を掲載した(2002年1月28日朝刊)。それによれば、
それにしても、景気動向と内閣支持率がこうも無関係になると、そこに欧米の民主主義政治とは別個の日本の特性を感じないわけにはいかない。その理由をしいて求めれば哲学者和辻哲郎が「風土」で指摘する日本の「モンスーン的忍従性」であろうか。「熱帯的な、従って非戦闘的なあきらめでもなければ、また単に寒帯的な、気の長い辛抱強さでもなくして、あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従」と和辻は書いている。
として、28日段階における支持率の高さを和辻の風土論で説明しようとしている。この議論では「なぜそれなら小泉内閣だけがこれだけ支持されるのか」が必ずしも明確ではないが、日本人の気性をこの和辻の文章によって理解する向きは、決して少なくないだろう。
ここで私たちが無教会主義者であった内村鑑三を「日本的信仰者」の典型的人物として取り上げようと思ったいきさつは、上記のような相反する二つの側面を、日本人のキリスト者として持っている人物ではないか、と思ったからである。内村の信仰は一方で信仰者個人の内面を重視するものであった(第一章にて叙述)のに対して、他方で強い再臨思想を前面に打ち出し、非難をも浴びた(第二章)。
私たち自身は、この内村に対して信仰上の尊敬を覚えつつも、彼に欠けていたのが(近代=個人主義というような図式にとどまらない)本当の意味での「近代」の視点であったとして、「自由」及び「歴史」の観点から「近代」概念を理解しようとした大木英夫と近藤勝彦の主張を見た(第三章第一節)後で、永岡薫に見られるロック理解から、近代(市民)社会のあるべき姿を学びたい(第三章第二節)と思う。
第一章 内村「キリスト教問答」
内村は1905年に出されたこの書物で、自己の信仰を弁証している。
この中に見られる彼自身の信仰の特徴は、「霊魂の重視」である。まず第一に、霊魂は神から与えられたものであると言う(講談社学術文庫、1981年、p154。内村の引用は以下同じ)。また第二に、罪と救いの認識も「全有」whole beingによるといいながら、「心をもって神を見」「キリストが心の目に映り」という表現によって、実際には同様に「霊魂」の問題で考えていると言ってよいであろう。
このことは、「序言」においても
問 キリスト教を研究するの必要はどこにありますか。
答 どこにでもあります。まず第一に、人はもしパンのみにて生きる者でありませんならば、彼はまた霊の糧なる神の道を学ぶの必要があり、キリスト教は人類に供せられし天よりのマナであります。このマナを食わずして、人に霊的生命なるものはありません。(p6)
とはっきり打ち出されている。この「霊魂」という語が、内面的なものを重要視していることを表す箇所として、「偉人も英雄も聖書も、自由意志を有する吾人の霊魂にいかなる信仰をも強うることは出来ません。信仰は内より外に向かって発するものでありまして、外より内に向かってつめ込まるべきものではありません」(p71)が挙げられよう。ここから、彼が批判した制度的教会のみならず聖書も彼の言う「霊魂」よりは下位に位置づけられていることが分かる。
このことが、内村をして「キリストの神性問題は道徳問題である」(p75)と言わしめ、「自身を愛することは愛ではありません。少なくとも愛のもっとも劣等なるものであります。愛はいうまでもなく交換的であ」(p124)るがゆえに三位一体もまた要請されるという教理理解につながっている。このことは「実利実益」(p128)を求める日本人の気質の説明にもつながっているし、「ユニテリヤン教に信仰復興なるものはありません」(p131)という表現もここから理解され得よう。
内村の、「霊魂」を重んじ従って内面的な信仰理解からは、制度的教会は「現世的キリスト教」(p26など)であり、「来世」の存在を信じた偉人はキリスト教をおいても存在するとして、赤穂義士の臨終の歌や次郎長の辞世の歌を取り上げる(p29)。
従って、この段階での彼の信仰理解からは、「来世」の存在は「霊魂」の次元の問題であったことが分かる。
第二章 内村をどう評価するか――再臨思想との連続性
この内村が、第一次大戦を経て当時の日本キリスト教界を席巻した「再臨運動」に入り込んでいく様子については、手元の資料では孫引きにならざるを得ない。
中田重治らとともに再臨運動を牽引する当時の内村を、組合教会の指導者の一人であった柏木義円は「再臨を以て此物質的の肉体其儘の現出と信ずる(上毛教界月報237号(T7))」(近藤、デモクラシーの神学思想、教文館、2000年、p445より孫引き)ものであったと評価する。つまり、柏木の視点からすれば、今までの彼の内面重視の姿勢から、180度異なるともみえる姿勢を取っていることになる。この間の事情を柏木の研究者である片野真佐子はこう説明する。
柏木の見るところ、信仰の純化を求めて現世的関係への執着を次々と断ち切った内村は、現実における方向感覚を見失ったまま、自身のうちなる神の命によりあらゆる現世的出来事を裁断する「宇宙の正確なる説明者」となった。(孤憤のひと柏木義円、新教出版社、1993年、p255)
この「現実における方向感覚」の喪失の結果が、黙示思想の強力な現実化作用として内村に働いた、ということになる。
この点で、内村が自然や農業に対して目を向けていたという近藤の指摘は興味深い。近藤によれば「内村の終末における「非戦」の思想は農本主義であった」(デモクラシーの神学思想、p437)しまた「敗壊の奴隷」としての「天然」がキリスト再臨によって完成される(上掲書、436)。ここから内村が再臨思想段階以前においても「自己の天然学歴史学の蘊蓄を尽くして聖書解釈学のために用ゐた」(上掲書、p429)ことも説明出来るのである。
これは彼の思想的変節であろうか。そうではない。彼はまた「近代の神学博士など」「新神学」「自由神学」「近代神学」「高等批評」…は「人の霊魂の糧として何等の価値をも有しない」とし、「聖書を首尾一貫し、また霊の糧として読むこと」は「歴史、実験、預言の鼎足」の上に立って成り立つことであると言う(以上の引用は上掲書、p433)。これは近藤によればこの「預言」とは聖書における再臨の証言を意味している(同一ページ)。「信仰問答」段階の内村と「再臨思想」段階の内村との連続性が十分認められるであろう。
従って、内村は、「霊魂」の問題としてとらえる信仰理解を覆す形ではなくて、発展させる形において再臨運動に飛び込んだのであり、二つの本来相矛盾する側面を同時に併せ持っているという点で、和辻が分析するモンスーン的風土の性格の人間であることになる。
第三章 近代化を「歴史」の視点からとらえる 二つのケースから
しかし、このような極端から極端へという信仰の変遷は、決して望ましいものとは言えない。内村のどこに問題があったのであろうか。この問題を「個人主義」から派生するというような分析は妥当しない。全ての個人主義が再臨思想と親和性を持つわけではないことからもそのことは明らかである。「個人」という思想は元々近代に属するものであるので、ここではこの「近代」をどういう時代として理解するかが重要となろう。ここでは近代を「自由」ないし「歴史」という言葉によって理解した二人の神学者を取り上げ、その後ロック研究者として名高い法学者の言葉から学びたいと思う。
第一節 「歴史」理解について
近藤はこう言う。
変貌に対して開かれた態度、また現時点での対外的、また対自的に異質なものに対する開放的な態度が根拠付けを得るであろう。神学的歴史主義は、古代的復古主義や排外的、孤立主義が陥る非現実性、抽象性を明らかにすることである。(トレルチ研究、教文館、1996年、下巻、p247)
この「開かれた態度」は単に認識の問題にとどまらず、大木が言うように「自由」という言葉によって、言い表されるたぐいのものと同じであろう。
「近代化」の存在論的性格は《歴史化》と呼ばれるものであり、近代世界を貫いた社会変動は、メッサニーが言う「自然」からのからの「自由」という性格を持っていることに、われわれは注目せねばならない。(新しい共同体の倫理学 基礎編、教文館、1994年、上巻、p47)
そうすれば、柏木の「民主主義理解」に関して分析する近藤のこのような言葉も意味を持つ。
国民個々の「尊厳侵す可からざるもの」として「良心の自由」「信仰の自由」「思想の自由」「言論の自由」「参政の権利」があり、これらの承認こそが「民主主義の精髄である」、これを「目的としての人」とも言っている。(デモクラシーの神学思想、p448)
要するに、各個人が、自己に与えられた「自由」を(内面のみならず)外面的に行使することによって、「自然」ないし「コスモス」的世界(いずれも大木の言葉)は、「歴史的世界」になるのであってそれこそが「近代化」なのであり、大木によれば農業的社会から工業的社会に変容するのも近代化の一側面なのである。(大木、上巻、p56またp62)。
もっとも、大木が言う「農業」も今日は近代化されており、もはや(農業的)凶作よりは(工業的)不況の方が蓋然性は遙かに高い。しかし、内村が天然(自然)を意のままにはあやつれないものとして考えたのに対し、近代がそれを「自由」という概念によって理解したというのは間違いではなかろう。内村が内面と外面との亀裂のゆえに「自由」を自己内面のものとしてしか考えなかったのに対して、この節で扱った三人はいずれも「自由」を世界や社会に働きかけるものとして考えていると言える。そしてそのことが「近代」を中世以前と切り離した「歴史」的なものとしていることになるのである。
第二節 永岡に見られるロック理解
ロックは「自由」の概念が近代市民社会において重要な役割を果たすと主張した。このことを永岡は「自然的誕生のままの人間は、自然法を認識するに十分な理性を持ち合わさず、従って法を自覚することもなく、また自由でもない」(デモクラシーへの細い道――イギリスと日本、日本基督教団出版局、1984年、p234)と述べ、自由の出自が生得的なものではないと主張する。生誕時の状態は「放縦」の状態であり、「自由」との違いは法によって初めて意識されるものであるというのである。
ミルトンと同じく、(ロックは)放縦licenceの状態と自由Libertyの状態をはっきりと区別している。…ロックにとって法は、自然法であれ、合意に基づく法であれ、それは自由を保障するものとして考えられこそすれ、決して自由を圧殺するものではなかったのである。法は強制であり自由は解放であるとの考えに基づいて両者を対角線上に対置するような見解は全くロックのものではない。(永岡、p230f( )内上田)
従って、自由を「各人に固有な神から与え恵まれたプロパティ」(永岡、p239)と理解する場合には、「法」の存在が重要であるということになる。法の存在は「社会」の存在を前提とする。ロックによれば、それが「大きく自然的な共同体」ではなく「小さい、いくつかに分かれた部分社会(=共同社会)」である理由は、「人間の堕落」の問題であり(p229)、そうやって出来た市民社会形成の本質を永岡は次のように理解する。
ロックにおける市民社会の形成論は、究極的なところでは、この個人の悔い改めによる人間変革=新しい人間の生誕=神の国形成への参与=社会変革への参与という福音的信仰による思想に支えられていたのであった。(p263)
つまり、個人の悔い改めは「神の国形成への参与」を通じて、法によって作られた社会形成の参与へと至るというのである。
ここで永岡が社会変革への参与を最終目的においたのがなぜかについては一言説明を必要としよう。ロックは、キリスト者が「もう一つの人生another lifeにおける幸せと悲惨を見分けようと思いめぐらす」存在であると述べていたという(永岡、p218)。この「もう一つの人生」をを永岡は「『あの世』other lifeないし『来世』とだけ考えてしまうとあまりにも非経験的な似而非なるキリスト者像になってしまってロックらしくなくなってしまう恐れがある。…もとよりキリスト者ロックには固有の『来世』観があったことであろう。(永岡、222f)」と言って、その来世とは「『この世』のみ主義の持つ現実主義的桎梏(=不自由)からさわやかに抜け出」た者が、この世に生きながらなお『もう一つのこの世』としての新しい生を生きる(永岡、224f、傍点永岡)」のであると言っている。従って、永岡の言葉になおせば、悔い改めて新しい生誕を迎え神の国を知った者こそが社会変革に参与出来るということになる。
内村との違いは明らかであろう。内村が悔い改めを「霊魂の問題」として扱った理由は日本社会の状況によるところもあるかもしれない。山本七平の「キリスト教問答」に付された序文・解説によれば内村は「儒教的な日本の伝統思想」すなわち「宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は基本的に一致すると見」る見方と戦っているのであり、それ故に「霊魂の悔い改め、霊魂の救い」にキリスト教の場を見出さざるを得なかった(p4)。
だから、おそらく内村のキリスト教理解によるところなしとしない私たちの教会が、自由を行使することによって歴史的な、また社会形成的な教会であるためには、「悔い改め」、また「社会参加」として行使されるような「自由」という概念を確立しなければならないだろう。ここに私たちの課題がある。
なお永岡の理解については、「社会変革が最終目的か、神の国が最終目的か」ということが問題になるのだが、それについての議論は改めて言及することにしたい。
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