[転載+α]とあるブログでの応答
以下のやりとりは、実際になされたインターネット上でのやりとりを再現したものです。時系列で最新のものが上に来るようになっています。(7月20日編集)
なお、今回のやりとりについての私の見解はこちらへ。
Cyo10kai-sub1 2009/07/18 21:52
ued 様、繰り返し長文のコメントありがとうございます。コメントへの返信で互いの論理や主張をやり取りするのは、ネットの世界でに暴発の危険に備えるためにもあまり良い事とは思えません。ご見解は、ued様のHPにてご披露下されば、時々拝見させていただいて参考にさせていただくということに出来ませんか。
ということで、18日に戴いた最新のコメントは非公開にさせていただきました。
お書きいただいたコメントの見解には、返信コメントしたい部分もございましたが、ued様のコメントを非表示のままで私のコメントのみ載せるのはルール違反と思いますので、この連絡のみで終わります。
今後、時間はかかりますが教憲教規の逐条解説を行ってまいりますので、その中から私の思いをご理解下さい。また間違いや問題と思われるところがあれば、ued様のHPにてご批判願えればと思っております。以上よろしくお願いいたします。(ここでご署名、jis水準にない文字の誤表示を避けるため編集上割愛)
以下が7月18日に投稿された文章
またまたご丁寧なお返事痛み入ります。
議論の前提として、言葉遣いを一点確認させていただきます。「神学的課題としての教会法にはあまり関心をお持ちではない」ということですが、以下の意味で理解し、共感します。
「神学」という言葉を隠れ蓑にして自分の頭で考えない、自分の言葉で表現しない輩は少なくありません。それゆえに彼我の表現の違いがどの程度内容的なものと対応しているのかがきちんと評価できなくなり、その結果無意味かつ感情的、または党派的な対立に陥ってしまう現実を頻繁に見聞します。そんなことでは、教団の中で皆が一致協力して活動することはできなくなってしまいます。しかし1700の教会、2500の教師、10万から20万の信徒という国内としては小さくない規模の教会ですので、その都度話し合うとか、とりあえず飯食って風呂入って仲良くなるというような次元で所期の目的を達成することは現実的に不可能です。したがって、一致協力する基盤はあくまで「書かれたもの」が出発点でなければならない、ということです。
書かれたものを通じて信仰的協力がなされていくプロセスを指して「神学的課題」というのであれば、「神学的課題」がそれ以外の何ものであってもならないと私自身は考えています。たとえば私がこれまで記したところにおいて、再洗礼が否定されなければならない「神学的」な理由を衒学的に述べて理論的に圧倒しよう、などということは毛頭考えていないことはご理解いただけていると思います。
こういう基本的な事実に改めて気づかせていただいたことを感謝しつつもう一点述べさせていただくことをお許しください。教会憲法という名前で現在の教憲教規の原形が生まれたのは戦後すぐです。しかし、何の歴史的文脈もなく突然何人かの人たちがでっち上げた文章ではなく、歴史的な経緯があります。洗礼が教会員の籍と結びついていることなどはその例といえるでしょう。よく考えてみると、教会は2000年の間変遷を経験しつつ、信仰的協力を実現してきた共同体です。王様や教皇が圧倒的な権力を持っていた時代・地域もありますが、その一方で民主主義を生み出すに至る会議もまた教会から生まれました。端的に言えば、そこには知恵があります。教憲教規を通じてそのような知恵を今日の日本において生かし、信仰的協力を進めるということが目的であるとしたら、教憲教規はそれ自身が解釈のための最高基準なのではなく、聖書と信仰告白を含む2000年の歴史の中に教憲教規を読むためのヒントを求めてもいいのではないでしょうか。
そろそろ中身に入ります。私は「二度目の洗礼」の神学的意味などに触れたつもりはありませんし、今回も触れるつもりはありません。しかしそうであっても(いわゆる「神学」抜きで)「教規の中に定めの無い会員名簿(別帳)からの除籍が、なぜ必要なのか」は理解できるのではないかと思います。私は一人の牧師として、災害で教会・牧師館から避難するときに持ち出すものは「教会員原簿」であると理解しています。金庫の鍵は会計の方が持っていますしたいがい丈夫なものです。なによりもお金はまた献金で集まりますが、後から原簿を再構成することは不可能なことが多いです。特に別帳ならそうです。
「教団」の視点で考えると教会員が陪餐会員と別帳会員に分けることが教規135条で求められますしその区分で十分なのですが、「教会」は現実に会員の籍について、管理する責任を忠実に果たせる規定を必要とします。現住陪餐会員からの抹消は地方(不在)陪餐会員に移すか、逝去か、転出しかありません。連絡がつかないから別帳会員であるのに、逝去の事実が確認できないという理由でのみ年齢130歳の別帳会員を抱え込まねばらならなくなるのは教会にとっては非常に不合理です。従って、抹消という手続きを認める準則の示唆は非常にありがたいものです。一言で言えば、「別帳会員を管理する義務は教会にあるので、教規ではなく準則の中に管理規定として抹消可能事項を盛り込んである」と説明することになります。その解釈が登場したいきさつは、「たとえ別帳会員の籍であってもそれを忠実に管理するのは役員と牧師のつとめであり、教会員はそのことを理解し期待している」という信仰生活の実態です。
さらにいえば、私のHPで記したように、教規135条で陪餐会員としか規定されていないものを現住陪餐会員と地方陪餐(不在)会員に分けることは、教会レベルでしか認められません。しかしご存じの通り、教規94条をはじめとして現住陪餐会員という概念は教規の中でも決定的に重要です。準則なしには教規は完結しません。
そこまで考えると、「現行の教会規則(準則)は教憲教規を読まないで(もしくは無視し、別の手本を下敷きにして)作られた」ということはいえず、逆に教規と準則は相互補完の関係にある、といえるのではないでしょうか。第一、別の手本を下敷きにしたにしては準則はあまりに用語の点で似通いすぎてはいないでしょうか。
以上で本文は終わりですが、いくつかの文献示唆をありがとうございます。今海外ですので「福音と世界」に目を通すことができないのが残念です。ただ、逆に言えば教憲・教規には少なからず精通しているが現在の教団の政治状況についてはつぶさに知り得ない私のような者の理解は、「まず政治ありき」ではなくまず「書かれたものありき」で考えることはできます。
戸田先生の見解についても単純に権威化することなく、きっとご自分の言葉で発音し直してくれるのではないかと思い、期待しています。
期待といえば、次のようなことも過分な期待ではないと思い、積極的な意味を持って記しておきます。「その事に信仰職制委員会が気づき配慮下さっていたら良いのですが、逆に舵を切られていますから困ります。」という表現は議論を不毛にしてしまう恐れがあります。(悪い意味の)神学的な言説と同じで、具体的な事実に触れないままある世界に連れて行ってしまう言葉遣いです。少なくとも私には何のことか理解できませんでした。(大変遺憾ながら、教団新報にはそういう記事が散見されます。内部にどっぷりつかっている場合にはそれで十分なのでしょうが、ここは世界からアクセス可能なネットリソースなので。)
自戒の意味を込めて、お互いに伝わる言葉を使いたいということを確認しておきたいと思います。
Cyo10kai-sub1 2009/07/17 23:06
ued様、私は日本基督教団の組織運営のルールを定めた教憲教規には関心がありますが、神学的課題としての教会法にはあまり関心が有りません。
ただ、教団の中で皆が一致協力して活動すべきであるのに、そのためのルールとして定められた教憲教規が不当に扱われ、そのことで互いに傷つけ合っている現状にいたたまれなくて、私の理解するその内容(教憲教規の理解)を披露しているだけです。
私は、決まりの内容を理解するときにはその法的な効果・働きに注目します。そのことから準則の抱える矛盾に触れているだけです。教規の中に定めの無い会員名簿(別帳)からの除籍が、なぜ必要なのか理解できなかったから、皮肉を込めて二度目の洗礼を要求するのかと書きましたが、そのことの神学的な意味には興味はありません。
もし私が個別教会規則の雛形を作る仕事を与えられたなら、教憲教規を繰り返し呼んで、その内容と言葉使いにそって作りますし、規則と誤解されるような「準則」などという名称は使いません。「○○教会規則案(例文)」として公表します。そのようにすれば、今の教団を混乱に陥れているような事態は起こらなかったでしょう。その事に信仰職制委員会が気づき配慮下さっていたら良いのですが、逆に舵を切られていますから困ります。私は、現行の教会規則(準則)は教憲教規を読まないで(もしくは無視し、別の手本を下敷きにして)作られたと思っております。
事務的に作られることが多い規則の文章でも、よく読めば、その中に作った人間の人格や価値観が現れてくるものです。
『先例集』の教憲教規作成当時の記述を良くお読み下さり、戸田伊助先生の先例集の序文と『福音と世界』2009年6月号の「私の聖餐論」をお読み下さい。
また、林修三氏の『法令解釈の常識』を参考文献としてお読み下さい。林修三氏は日本国憲法の解釈などでは、私と全く異なる(対立する)理解をされている方ですが、法令解釈の常識に書かれている見識には学ぶべきものが多いです。さすが長年内閣法制局長官をされただけ有ります。(署名)
ued 2009/07/17 07:13
以前から私のHPをのぞいてくださっていたとのこと、恐縮です。
HPを作り始めたのが神学校の最初の学年で、それから軽く10年以上経っていますので実に様々な時点での思想が混在しています。教師になってからは信徒向けに教会法の解説をする機会が多くなりました。もしご興味があればそういうものを個人的に送付することは可能です。
私の先入観で、教憲・教規に興味を持つのはむしろ教職だろうと思っていたわけで、御ブログを見てその偏見はよい意味で砕かれたと思っています。そしてそれゆえに対話の必要と可能性を感じている次第です。
いただいたお返事に関して一点だけ。「教憲教規は成文で定められているので、普通の人なら、誰でも理解できる」というのは全くおっしゃるとおりです。そこから次のことを導き出しておられたのではないでしょうか。
「そしてそれゆえに教規と教会規則(準則)には違反(すなわち矛盾)がある、別帳会員の籍を抹消可能だとする教会規則は再洗礼を要請するではないか」
それに対して私は、「成文で定められている教憲・教規を普通の人の感覚で読んで理解し得たところに従って対応するしかないのではないか」という点に絞ってHPを記しました。「三位一体またはキリストの名によって洗礼を授けられた以上、再洗礼はどんなときでもだめ」と考える「普通の人」もいますし、「再洗礼も場合によってはあり得る」と考える「普通の人」もいます。
私が考える「普通」は「1.抹消された教会籍の復帰はあり得る。2.他の教派から移ったりしてやむを得ない場合は創籍もあり得る。3.教規86条に基づく教会規則を持たない教会であっても、教規にないからといって不自然な年齢に達した消息不明の別帳会員の籍を抹消できないことはない」というものです。成文法に書いていない対応をしていますが、ごく「普通」の対応のはずです。
成文法であってもそれを運用する際には「教団および教会という組織を安定に運営される」ことを旨としてなされるべきだというのが私の考えで、「普通の解釈」は許されているはずです。それでいくと「教会規則(準則)は教規違反である」とおっしゃる点も普通に解釈すれば解消しますし、それ以外にも御ブログにおける主張のいくつかは成り立たないのではないか、と愚考する次第です。
他にもいくつか気づいた点がありますが、とりわけ大事な点を指摘してくださったので、感謝しつつ反応させていただきました。
こちらこそこれからもご指導よろしくお願いします。
Cyo10kai-sub1 2009/07/17 01:28
ued様、コメントありがとうございます。
HPは以前から覗かせていただいていました。
神学の素養の無い、ただの信徒には敷居が高いHPですが・・・。
私は、信徒の立場から、教憲教規は成文で定められているのだから
普通の人なら、誰でも理解できるとの信念で私のブログで解説しています。
教団という組織を安定に運営されるために制定された教憲教規ですから、
その決まりを正しく理解して守りたいものです。
『教憲教規および諸規則』『先例集』を丁寧に読めば、その制定の意味は
理解できます。丁寧にお読みくださって、適切なアドバイスをお願いします。
ued 2009/07/15 06:47
ブログを興味深く拝見しました。
個別にこのエントリーということではなく、総括的に応答の必要がいくつかの点で
あると思いましたので、私のHPで5ページほどかけて記しました。
お時間があるときにご笑覧くだされば幸いです。
直接のご連絡はHPにあるメールアドレスにいただければと思います。
(掲示板不調のため)
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