対話の終止符を迎えて
インターネット上で教憲・教規を軸に教団のあり方を論じるブログが複数生まれ、期待を持ってその成り行きを見つめています。しかし、インターネット上での「対話」ということになると、困難な課題があるというのが今回の感想です。どういう風に今回の対話の挫折を判断するか、理由の解明が必要です。
顔が見えない関係ですから、お互いに最大限礼を節する必要があります。
長文の書き込みを受け入れられるかどうかという問題があるように感じられました。
確かに今回、ゲストとして書き込むにはかなりの長文であったように思います。言いたいことは要するに「教憲・教規に基づいて教団の執行体制を批判するという狙いはおもしろいが、間違った解釈では相手には通じない」ということですから、その主張を裏付ける根拠をいくつかあげるだけなら400文字程度で収まったように思います。書く際の思考方法と関係があるのかもしれません。まず最初に具体的な教務執行の現場を思い起こし、例を挙げつつ議論するというスタイルですから、しかも年長者への敬意を示しつつということになると、ブログへのコメントとしてはどうしても長くなってしまいます。
長文は読まれないというのがニュースサイトなどを見ても顕著な傾向ですので、長文での意見交換の可能性ということについては重要な課題を残したということですね。
もともとインターネットでの議論への期待は、どちらの側にも属さない公論の場を作り出すということにありました。教憲・教規を論じながらというテーマの性格からしても、ギリシャ時代のように中立性を帯びたアゴラのような場所が必要だし、可能だという期待です。
しかし、アゴラは中世以降歴史から姿を消すという事実があります。インターネットも初期の理想から、だんだんと私的財産であるプライベートルームへと移行しているという指摘はずいぶんなされていますね。どんな情報にもアクセスできるようになったからといって、実際にするのかといえば結局はお好みのサイトを回るのがせいぜいです。そういう意味でインターネット時代は興味の指向がかえって狭くなるともいわれていますね。
それと同時に、インターネット上で一人の人が当初述べていた意見を、議論を交わす中で、変容させ、成熟させるということはほとんどみられなくなったというのが特徴だと思います。
…話を教団に戻しますが、教憲・教規を軸にした教団内部の対話の展望について。左右の対立を克服する方法として、教会法の観点から議論することで視点をすっきりさせるということはずいぶん試みられています。
先日大阪で逝去された牧師も、この点では多大な成果を上げたことで有名です。葬儀の時には敵味方の関係なく弔意が寄せられたとか。教団において「対話」というと、裏取引や折衷案が連想されますが、そういうことから自由になって左右が集まることが「教憲・教規」を軸に今まではなされてきました。
このことは今後どうなるのでしょうか。
教団の情報はインターネットで入手しにくい状況が続いていますが、これはインターネットでの議論をどういう風に担うかということとも関係しています。長文を論旨をはっきりさせつつさらに誤字にまで気をつけてインターネットで発信するということは意外と難しいのが現状です。
対話の原形は「話す」ことにあるわけで、教会法的にいえば「会議」ということにもなります。会議に当たるものをネット上ですることの可能性については。
会議においても、絶対に変わりたくないという人にとっては、成熟した対話が目的ではなく、票決のみの数勝負になります。相手が変わりうるという相互信頼がないところでは会議も対話も成り立たないという意味では、ネットもリアルも同じでしょう。
もう一つ、今回のブログを見て、「教憲・教規について論じる」というよりは、「教憲・教規によって現在の執行部のあり方を批判する」という方にかなり重きが置かれているように思ったのですが、教団執行部への批判が入会の条件であるような仲間とかグループというのはかなり広がっているとみた方がいいのでしょうか。
これが私もよくわからないのです。現在の執行部は出身神学校をみても旧教派的背景を見てもかなり多様です。一口で「教団中央」といえるほどに一枚岩なのでしょうか。
あるいは、いつの間にか一枚岩になれるほどに団結力が生まれ、それ故に嫉妬や混乱を狙う意図から批判が生まれたということも考えられないことはないと思いますが。
それはわかりません。しかし一方西早稲田では、元々一枚岩ではないからこそ教憲・教規による一致ということが教団役員会では認識されていたと思います。学閥を超えて教団を担うということは今後も続きますので、この認識が変わることはないでしょう。
そう考えてみると、「教憲・教規に照らし合わせて考えてみると今の執行部のやり方は間違っている」という批判のあり方は、執行部のあり方にそぐうものであるともいえるのではないでしょうか。
そういう批判を受け止めてさらなる改善に努めるということは当然あり得るでしょう。従って、批判は筋が通ったものでなければなりません。また、変わろうとしない人の批判には説得力がありません。結局、インターネット上での議論と実際の議論には、教団の枠組みという点では特に変わりがありません。「裏交渉はあっても対話はない」というのが90年代前半までの状況でした。その後も、相互批判の場所というものは上記のようにごく限られた場所でのみなされているのが実情です。「対話の挫折」ということは、批判の健全性や正当性を検証する方法も失われている、ということですから、これはなかなか難しい問題です。
課題と可能性の両方が常に存在し続けている、ということですね。他にはありますか。
教憲・教規を論じるブログは一つではありません。折を見て、他のブログについても感想を記していきたいと思います。特に、いわゆる教会派の中での教憲・教規理解も一枚岩ではありません。最近よい実例を見いだしましたので、教憲・教規理解を深めていくという目的で、それについてはまた触れていくことにしましょう。
そういう意味で、これは対話の終止符ではなく、休止符なのだと私の方では信じたいと思います。
2009/07/21
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